胸部外科医Cerfolio先生の生き方

「仕事でも家庭でも突き抜ける方法」

私がDr. Cerfolioを知ったのは、アメリカに臨床留学していた2011年だった。日本ではお目にかかることのないオーラと勢いを兼ね備えた胸部外科医がいた。北米の胸部外科医は、一般(腹部)外科のトレーニングを終了することが必要で、さらに日本人よりも精神的にも肉体的にも厳しい胸部外科トレーニングを終えている。彼の執筆した「Superperformer (突き抜ける人)」は「働き方改革」の考え方に一石を投じる。また、精神論ばかりではなく、具体的な心身のトレーニング法が満載である。その内容を紹介する。

 


いつもの日であり、いつもの日ではなかったあの日

 

アメリカの胸部外科医の数倍の手術をこなすCerfolio先生。いつもの忙しい日が、彼にとって特別な日になった。この本はその章から始まる。

 

 2010年6月のとある水曜日は、いつもの日だった。何人かの見学者が私の手術を勉強しに来ていたし、その日は8件の手術をすることになっていた。4つの手術室を同時に使いながら多くの手術を並行して進めていく、それはこの10年間変わらぬ私のやり方だ。

 その日、私にとっての何時もではなかったのは、20年間連れ添った妻のローレインが丁度2階上の手術室にいたということだ。妻はメスを入れられる側になってしまったのだ。

 数日前、妻は乳癌と診断され、乳房の切除と脇のリンパ節の生検を受けることとなった。脇のリンパ節のうちの1つはセンチネルリンパ節と呼ばれるもので、通常乳癌が転移する最初のリンパ節である。そのセンチネルリンパ節に癌がいるかどうかを調べることで、癌が全身に広がりつつあるかどうかを医師は知る。妻の場合、その可能性は低かった。というのも腫瘍はまだ非常に小さかったからだ。しかし、彼女の運命はそのリンパ節の検査にかかっているというのも本当だった。その日私は、妻を早朝病院に連れて行って、術前待合で小一時間一緒に座って話した。妻の手を握って、妻が手術室に向かうのを見送った。

 

なぜあの日、私は手術をしていたのだろう。私は自分の拡大鏡とヘッドライトで術野をのぞき込んでいた。その光の当たったすぐ近くの術野はほんの少し前にしっかりとそこにあったのに、突然、暗く、深く、危険なものに見えた。その肺動脈の壁は、ほんの少し前には分厚く縫合しやすいように思えたのに、その一瞬後の今、紙のように薄いものに見えた。私の自信・外科医としての判断力・技術のすべては一瞬前には満ち溢れていたが、今消え去ってしまった。今までの外科医としての人生の中で初めて、手術できなくなった。さて、今わたしはどうするのか?助っ人としていつも待機してくれている外科医を一人呼ぶこともできたが、そうすべきか私はわからなかった。少なくともその時点では。この手術をどうやって完遂したのかを、それはこの本を通して伝えたい。その学びは、「突き抜ける人」になるためのヒントになるだろう。もしあなたが外科医なら、手術室にて進化するという目的のためになる。

 

 

 


自分にとっての「満足のライン」とは何か?

 

父は泌尿器科医の父と看護師の母の間に、1962年ニュージャージーで生まれたCerfolio先生。「自分は特別な人間ではないがいつも自信に満ちている」とCerfolio先生は自称する。秘訣として先生が挙げているのは、「人生というゲームをどうやって自分のフィールドの中にもってくるか」ということである。8歳の時に割り当てられた、自宅の庭の草刈りで彼は大切なことを学ぶ。それは「満足のライン」である。それがどのようなものか、本文をみてみよう。

 

8歳の時、父や兄と一緒に庭の草刈りをするように言われた。私達3人は、土曜日の朝に始め、一人一人に刈るべき領域の割り当てがあった。休まず刈り続ければ、全部で4時間かかるくらいだった。刈り取った草は、雑草が生えてこないように庭に敷き詰めていた。8歳の私には、父や兄と草刈りに出た時、私には時間がかかるものだということがわかったため、楽しんでやることにした。はっきりと言えば、芝刈り機を動かしていくときにできる、芝生のラインに集中していた。芝生の表面にできる長い平行のラインのことで、これは私の仕事と汗の結晶だ。自分だけのものであって他の人のものではない。

 兄と父と私は、チームとして仕事していたのだ。しばらくするとその芝刈りは、仕事でも重圧でもなくなった。芝生を格好良く見せることが楽しくなった。この子供用の仕事は、満足と誇りを教えてくれた。芝を刈るときに得た学びは、学校が始まりテストを受けるときも同じように始まった。難しいテストでいい点数を取ることは、芝生を刈り取ったときのラインを見たときと同じような満足感をもたらしてくれた。一生懸命にやったことの結果が跳ね返っってくると点で同じだった。芝を刈るという単純な少年時代の仕事によって、人生や仕事に関して多くのことを学んだ。

 早起きして仕事を早くに済ませば、芝生の上にまだ結露が付いているとしても、日中後でするよりも早朝の方が早く仕事を終えることができるのだ。そして、なぜか、その日は時間が長く感じられ、つまり自由時間が増えるのだ。早朝から仕事をしないときと比較して、だ。

 

さて、その8歳の時に学んだ「満足のライン」は後の、悲惨な外科研修医生活に生きてくる。次のように‥

 

先延ばしにすればするほど、仕事の重荷はより重くのしかかるし、仕事は永遠に続くように思えてしまう。先延ばしについてのこの真実は、成長して若い医師になったときでも一緒だった。医学部を出たばかりの外科研修医だったころ、2週間おきに週末は当直だった。つまり自分たちが手術した患者を回診するということだ。殆どの研修医は、土曜日曜は遅くまで眠っていたい。もっとも外科研修医にとっては、平日の回診が午前4時に始まるのだから、午前6時までが「遅く」ということになる。すべての患者を診察し、指示を出し、カルテを書いて、午前7時までには手術室についていなければならない。そして、少年時代に芝生を刈っていた時の教訓は、20年たった後でも生きているのだ。朝早くに仕事を始め、チームとして頑張れば、なぜかその日はもっと長く思えるし、その日に遅くに(午前4時ではなくて6時としても)仕事を開始するよりも自由な時間は増える。繰り返しになるが、仕事は楽しくなる。大学病院の教授という最も忙しい外科医とは違って、ほとんどの手術症例では最後まで残って形成外科のやり方で皮膚を縫合している。

  私の皮膚切開のラインは、芝生の上の芝刈り機の車輪の跡のようなものだ。私の新しい「満足のライン」だ。今まで15000例の手術をしたが、それでもこの仕事が好きだ。皮膚切開を縫い終わった後、美しい埋没縫合をみて楽しんでいる。埋没縫合をじっくり確認するのが好きだ。スキンステープラー(注:皮膚縫合用のホッチキス)や抜糸するべき縫合糸を使用することはない。芝刈りバサミを使わないのと同じだ。まず、創部は患者に見られるものだし、それはお客さんが家に来た時最初に見るものが芝生ということと同じだ。患者さんの評価は創部で決まるのだ。

 

その「満足のライン」は一人一人のものである。それを気付くことが生きていく上で最も重要なことである。


Cerfolio先生は、まずは朝型人間になることを勧めている。

 

 

外国からの見学者の多くは、特にヨーロッパからの見学者はそうなのだが、私達チームが早朝から手術を始めることに驚く。我々の患者は大体早朝5時30分に病院に来る(注:基本的に外国は手術当日に入院する)。7時前には手術室に入り、7時10分までに1例目はスタートする。早く終わることで他の仕事ができるし、早く家に帰れるし、家族と夕食もできる。

 

生理学的に朝型人間が有利な理由

しかし、朝7時丁度に始める最大の理由は、人間の生理学にしっかりと基づいている。人間の体は、早朝の侵襲やパフォーマンス用に設定されている。言い換えれば、患者の肉体は手術という侵襲によりよく対処できるのは、この早朝という時間帯なのである。外科医も看護師も手術チームの他のメンバーも人間である以上、同じことが言える。パフォーマンスは朝がベストだ。だから、社会全体としても、出来るだけ早朝に仕事を始めることを考慮するべきなのだ。いつも質問されることがある。いつ眠っているんだ?と。私は他人と同様に眠ることは好きだ。芝刈りを早く始めれば始めるほどを学んだが、自分のことを、若い時からの朝型人間と言ったつもりはない。医学部に行き、外科研修医をやったあと、つまりほとんど毎日午前4時に起きる生活(注:アメリカの外科研修医としては標準的な時間である)を数年続けた後、朝型人間になった。歳を重ねれば重ねるほど、早朝に自分の調子が良い、ということをより強く認識するようになった。そして、歳を重ねるほど、リーダーとしての責任をより受け入れるようになった。つまりより早く起床するようになった。

 

チームリーダーこそ早朝スタートを

自分のチームメイトに、時間を守るという習慣を植え付けたければ、自分で手本を示すことだ。リーダーが一番早く来なければならないし、一番仕事を始めるべきだ。会議あれ手術であれそうであろう。そうすることにより、自分たちは朝型人間ではないと主張する従業員に向かって、権威をもって話すことができる。朝型人間ではないと主張する従業員には、わたしはこのように言っている「すばらしい。私も朝型人間ではない。でも今の社会、そして特にこの病院は、ほとんどのイベントを早朝に行うことを指示している。だから早朝に動くことを学んだほうが良い。」こんな風に言う理由は、成功することのもっとも重要な具体的要素は時間を守る、とういことだから。余裕をもって時間を守るということをトレーニングされていないために、仕事や人生のイベントで失敗する人がいる。この一つ、単純な物流システムは、成功するための最も重要な戦略の一つだ。

 車を降りて、急いでティーアップし、最初のホールでドライバーを引っ張り出すゴルファーは、しばしば森の中でロストボールを探す運命になるだろう。手術に対して肉体的にも精神的にも準備ができておらず、最初の手術室(注:米国の外科医は複数の手術室を並行して使用することが多い)に急ぐ外科医は、そのゴルファーと同様負けが決まっている。外科医だけは、ゴルフボールを失う以上のリスクを抱えているのだが。だから、もしあなたが昔の私と同様朝型人間でないんなら、変わっていこう。

 

子供や部下にも朝型生活を勧めてみよう

いつも眠りすぎの子供やティーンエイジャーは、もっと難しい問題だ。ティーンエイジャーは大人よりも睡眠が必要であるというのは、生理学上の事実であるが、だからと言って1日の半分が終わるまで(つまり午前10時や11時)彼らを寝かせてやって良いわけではない。週末は遅くまで寝ているというサイクルを打ちこわすためには、日曜日の朝早くに子供を起こし、日曜日の夜10時にはもっと疲れやすくさせれば良い。近所の人に笑われたことがあるが、ローレインと私は、休暇が終わりに近づくにつれて、どんどん朝早く子供たちを起こすようにしていた。3人の子供を1日1日ちょっとずつ早く起こすことで、夜には疲れるようになり学校へ行く準備となる。7歳か8歳になると、子供たちが自分でベッドを起き出すようにして、両親として叩き起こしたくなるのを我慢した。もし子供たちが寝過ごしたら、そのツケを味わわせることとしたのである。その結果、子供たちは、私たちが身につけてほしい習慣を学んでくれた。会社の中では、自分の従業員が眠る時間を決めるわけにはいかない。もし従業員に遅刻に関する成績表を手渡して、毎月のミーティングでスライドにして、1番から最下位まで公開するようにすることはできる。こうすることで人々に競争をもたらし、公の意味で一人ひとりが責任感を持つ。公然と責任を持たせ、成績結果を公表する以上に、習慣は風習を変える良い方法はない。始業時間に出勤することの記録を続けることで、従業員の「満足のライン」を作ることができる。

 


ゲーム好きになれ

 

ゲームで勝つことに熱中できる習慣がつけば、仕事にも生かせるかもしれない。よく言われているが、Cerfolio先生も自分の幼少時代を述懐している。その一節である。

 

 私が子供のころ、家族で3-4日の休暇を取り、ジャージーの海岸に遊びに行ったものである。 私はあるホテルが好きで、それはホテルでは小さなプラスチックのトロフィーが子供たちの競争の景品だったのだ。そのトロフィーが欲しかった。

 そのミニ競技の前日に、ホテルのダイビングボードの上で宙返りを練習していた時のことを思い出す。ダイビングボードの端に到達するたびに、父と母に向かって叫んだ。「パパ・ママ、こっち見て」 込み合ったプールデッキ越しに叫んでいた。私は沢山の人の前で、特に両親の前で 競技をする機会が嬉しかった。そして次の日、一番よい砂城を作って賞を取り、競泳で一等賞を取り、ダイビングボードで最高の宙返りをして賞をもらった。私がもらったちっぽけなプラスチックのトロフィーは、ホテルにしたら1つ50セントといったところだ。小さな安物にもかかわらず私にとってはかけがえのないものであった。自分のベッドルームに並べて、人生初の「満足のライン」となったのである。

 そのトロフィーは、極めて重要な満足のラインだ。それを勝ち取ろうという努力は、自分の中に熱意と勤勉という習慣を作る。私が色々な学校を訪問した時に気付くのは、優勝トロフィーを綺麗なトロフィーケースや華美な箱の中に収納していて、ほとんどの生徒の目に触れないようになっている学校がいかに多いかということだ。トロフィーは多くの学校のアスリートたちが、学校や運動場に行く道すがら、毎日人の目に触れる場所に飾られるべきである。次の優勝を勝ち取るために毎日努力している人間が、その努力の集大成となるものを、目にするようにしておくべきだ。

 最近私の胸部外科チームが、世界中の有名施設の全ての内科系外科系の診療科の中で、最も低い手術死亡率を達成し、賞を頂いた。これは私たちのチームにとって大きなことであった。なぜなら日々私たちが手術しているのは重症患者であり、手術手技も複雑であるからだ。この賞はチームワークの賜物であり、重要な要素は活力である。子供の時に私が宙返りをして賞を狙った時と同じ活力なのだ。多くの見学者は、私たちが1つの手術室から別の手術室に移って行くのをみて、その活力に驚く。ほとんどの外科医は一つの手術室をもち、週に3回手術をする。ということは1日に2−3例で1週間に6−9例という計算になる。しかし長年私は、1日に4つの手術室を使用し、1週間に4日手術をしている(注:1週間には少なくとも32例という計算になるだろう)。しかもそれぞれの手術室で、患者にベストの治療ができるように努めてきた。

 


本当に自分はベストを尽くしたと言えるのか?その検証をすることの重要性を、Cerfolio先生は強調している。

 

 

おそらく最も過剰に使われ、また間違って使われるフレーズの一つは「私はベストを尽くした」ということである。あまりによく耳にする。本当にそうなのか? ある日の練習においてもうちょっと頑張ったり、1日ほんの10分多く勉強したり、といったこともできなかったというのは本当だろうか?成功は、チームであれ二人であれ、同じゴールや価値観を共有したものにもたらされる。何かに成功するとか勝つというコンセプトは、とどのつまり、何を成功と考えるか、目標は何かというである。チームメンバーが成功をどれほど明確に定義するか、そしてどれくらい正確に測定されるか、どれほど強く選手やアスリートが望むかにかかっている。

 

我々の胸部外科チームが賞を取ったのは、自分たちが自身の行動を振り返り、どうすればもっと改善するのかということ進んでしているからであって、単に「ベストを尽くしている」からではない。別の例を挙げよう。さらに見学者が驚くことは、我々が休憩時間が短いのに1日中働いているということであり、それも「熱意」の文化を作り出し、「成功」をある特定の水準の仕事、つまりなるべく低い死亡率で1日にある一定数の手術症例をするということと定義しているからである。その水準を達成するためには、仕事が終わるまで限界まで努力をして限界まで効率的に仕事をしなければならない。

 

休息は、単に仕事の流れを非効率にして中断しているだけ、ということが少なくない。その水準の成功を強く欲するので、午前10時と午後2時に5分ずつの休憩を取り、プロテインシェイクとp90Xプロテインバーを摂る。しっかりと健康的な朝食を食べていれば、それだけで、仕事が終わるまで走り続けることができる。

 

自分自身と自分のチームが成功というものをどう定義づけるか、そして「ベストを尽くす」ということをどう定義づけるかが決まる。自分の周囲というのは、家族かもしれない(通常は両親がその雰囲気を作る)、チーム(コーチやオーナーが作る)、会社(重役たちが作る)かもしれない。明確に決めた目標を達成するという考え方は、アスリート、名人、子供、従業員の中に染み込んでいるため、彼らの一部になっている。言い換えれば、卓越していることと超仕事は、彼らのアイデンティティーと目標の基礎となっているのである。そして彼らのDNAの一部であるし彼らの骨格の中に絡み合っているのである。

 

 

 


15歳で大人に混じってアルバイトをして学んだこと。 

 

日本の医師で15歳で世間のアルバイトをした経験のあるものは少ないだろう。米国では違うのかもしれない。それで何を学べるのか?Cerfolio先生の強さの由来がわかる。

 

15歳になった1977年の夏のこと、父に言われたのは仕事を見つけるということであった。私の労働者としての1日目はニュージャージーの建設会社としてであった。仲間たちのほとんどは20台で、話し方がまるで違ったし、明らかに違った雰囲気でお互い馴染んでいた。この仕事が私にとってどのようなものになるかは不明であった。

 私は3人とチームになり、最初の仕事は、一つの区域を占拠している老朽化した工場とその地域の掃除であった。私は自分の箒を手に取り、塵を掃き始めた。自分の最初の通りを掃き終わり、そこで、もう一方の端から掃き始めた仲間と出会うはずだったが、誰の姿も目にせず、丁度その曲がり角を曲がってそちらの通りも掃除した。そうやって進み続けた。とうとう4つめの最後の通りに到達し、残りの3人の仲間を目にしたが、彼らは自分の担当の最初の通りの半分を進んだところだった。それがチームとしての仕事だった。監督が車で近くまでやってきて、「ほかのみんなはコーヒーブレイクだから、きみもそうするように」といわれた。約20分間、わたしたちはただ、コーヒーを飲み、ドーナッツを食べ、老朽化した建物の横で座っていた。コーヒーブレイクなんて今まで聞いたことがなかったのだ。

 それまでは、これほどまでに長い時間一生懸命掃除をしたことなんてなかったから、その日の終わりにはマメができた。マメから血を出しているのを見た監督は、私に帰宅するように言ったが、それはショックだった。私は怪我は大したことがないし、大丈夫だと言って、自分のやるべきことをこなし、計画通りにシフトを終えた。

 その日の夜、父が家に帰ってきたとき、私はその日のことを話した。私が一緒に仕事をした仲間等が如何に非能率的であったか、いかにサボっていたか、ということを話した。彼らと仕事をするのは難しくはなく、それどころか彼らよりずっと一生懸命働いた。そしていくつかマメができたため、家に帰されそうになったこともとうとう話をした。父はにっこりとそして声を出して笑ったのを覚えている。

 痛みがあっても傷があってもやり続けることは、一生ものになるし、「突き抜ける人間」への道でもある。胸部外科専門医となり、アラバマ州のバーミンガムに異動してからも、屋外で仕事をすること、手作業をすることが好きだ。家の周りで庭仕事をすることで、心の安らぎと太陽の光の下での時間を享受したし、自分が子供の時父親からしてもらったことを、そのまま子供たちにしてやる機会を得た。最近も息子たちととも、家の前の低木を30本も抜いた。ショベル・斧・つるはしと、たくさんの軍手を必要とした。週末はずっと100度を超える(注:摂氏では37度くらい)炎天下であった。私と息子たちは交代で斧とつるはしを奮って、そしてショベルで掘った。

 

そして彼が子供たちに教えたいこと、伝えたいこともそのアルバイトの経験に由来する。

 私が学び、子供たちに教えようとしたことは、問題がいかに難しく思えたり、その達成がどんなにしんどいものであろうとも問題ではない、ということだ。やらねばならぬことはやらねばならぬ。それが職務であろうと、患者さんに対してであろうと、リトルリーグのチームに対してであろうとも。一つのチームにはいったのなら、それがそんなチームであろうとも、自分の時間、努力、そして自分のすべてを尽くさなければならない。時間通りにすべての試合と練習にさんかするべきだし、いつでも準備万端でなくてはならない。

 私はこの15年、野球・バスケットボール・フットボール・ホッケーにおいて60以上のチームでヘッドコーチもしくは普通のコーチを務めた。7歳の野球ゲームでアレックを教えていた時のことだった。チームの男の子が手を切って、試合を抜け出して私に見せに来た。ほんの小さな擦り傷だ。お世辞にも「切った」とは言えないものだったので、「大したことがないのだから、戻って頑張れといった。この時、その子の母親がバスケットボールのコートを急ぎ足で横切ってやってきた。母親は血を見て(ほんの2滴、といったところだった)、すぐにその子を試合から連れ出して救急外来につれていったのである。アレックはびっくりしていた。その子の育った環境は、私と妻が子供を育てたものとは全く違ったものであったのだ。

たとえば、一番下の息子のマシューは、6歳ごろジャングルジムから落ちて骨折したが、そのときすでに野球とバスケットボールの試合に出ることになっていたのだ。マシューは何があってもその試合には出ると言い張り、だから、6歳ではあったが、腕に大きなギブスをした状態で試合に出ることを許した。友達はいろいろ言っていたようだが、彼はそんな人間なんだということを知ってもあえたようである。3塁打を打って、3塁に仁王立ちになっていたのは絵になっていると思った。片手で売って、内野にしか飛んでいなかったのであるが。競技場で精神力が強いことは、後々どんな仕事においても同様の強さに繋がる。私の父を見れば一目瞭然だ。

 


Cerfolio先生は医師の父親から何を学んだのだろうか?

その泌尿器科医の父は、1週間に渡り毎食後、熱と寒気とと右上の腹部痛があった。これらは、胆嚢が腫れていることを示す古典的な兆候だ。父自身が分かっていたが、山ほど手術が予定されていることもわかっていた。母は私に父の状態を伝えるために電話をかけてきたため、その次の日には飛行機で、父の病院に駆けつけたのだが、父は予定手術をしているところであった。体温は39度あったし、感染症にやられていることが明らかに見えた。4時間後には、今度は父が手術を受ける側に回り、胆嚢の摘出を受けた。翌朝の病院の看護師から母にかかってきた電話では、父は病院から消えたということであったが、実はその2つ上の病棟で、前日の手術患者の回診をしていたのである。

 精神力の強さを保つためには、ある程度の肉体的強さを養わなければならない。ほとんどの人は、車で職場に来て、エレベータでオフィスへ、そして一日8時間から12時間働いて汗をやっとかくというくらいの運動量である。一日中一生懸命働いているかもしれないが、私たちの心拍が、元々の平常値を超えることはまずない。成功者になるためには、背部痛や関節痛、あるいはちょっとした風邪といった身体的なことを乗り越えて仕事をできなければならない。身体の具合が悪い中で仕事をするということにより、精神的な強さや機敏さが養われる。自分の健康が完璧でなくても、大抵はそれでも仕事をきちんとできることを頭でわかっておくべきだ。

 我々の環境では、痛み止めを欲したり、有給を欲しがったりすることがみだりに行われている。そして医者が病気を決めると、我々はそれを正当化して、大げさにするだけだ。本当に身体上の問題を抱える患者もいるのは明らかだが、通常の痛みや加齢による痛みを我慢して仕事に来ている患者も多いのだ。

 病気で有給を取るという考えは、非生産的だ。多くの人が知っているように私は、長年、病気で欠勤したことはない。私の場合17年間だ。自分の体調が完璧ではない日に仕事に来て、誰かに病気を移したことはない。そして私の仕事は、最も身体的な要素が強い。もちろん自分の仕事次第ではあるが、ほとんどの場合、きちんと手を洗う、お皿や道具の共有をしないということにだけで、感染を広げなくても済むのである。

 したがって、病気で休む日を有給とするのではなく、皆勤する人に褒賞している。皆勤した従業員にボーナスを与えることで、身体上精神上の強さを期待できるようになるのであり、その強さはsuperperformanceを裏打ちするのである。それは、自分の義務を大切にするという伝統である。

 

目標は重要で、様々な形態、大きさ、型を取りうる。目標の全てが、固定した物体や賞という形をとるわけではない。1988年に私が、コネチカット州のハートフォードの聖フランシス病院で、1年目の研修医として働いていた時、6人の外科研修医と一緒に座っていた時、今までで最も美しい女性が職員食堂に入ってきた。

6人とも振り返って彼女を注視した。ブロンドの髪で、青い目の中には独特の輝きがあった。病院中で彼女を知らないものはいなかった。研修医の友人に彼女のことを聞いてみると、口を揃えて、彼女は医者とは誰も、特に外科医とは誰もデートしないよ、というのであった。

 そしてまたもう一つの挑戦、つまり目標ができたのだ。私ははっきりとした、客観的な目標を作った。彼女と会う、いや少なくとも知り合いになる、ということだ。

 この看護師、ローレインと初めて長い時間会話をしたときのことを今でもよく覚えている。1988年9月の木曜日だった。人生や目標、神様、そして望む家族のことを話した。私は4人子供が欲しいといい、彼女は3人と言った。私が設定した目標の結果が、その日の会話であり、最終的には22年間の結婚生活と3人のティーンエイジャーとなった(彼女の望み通りとなったのである)。

 

 


長距離バス旅行を楽しめ

 

 

最近の話だが、私の招待講演の中で、2つの写真を示した。エレベーターとエスカレータだ。スライドを出した理由は、自分の人生をエレベータに見立てる人が多すぎるからだ。自分のことを1つ上の階に移動する。それははっきりしているが、すでにきめうちされている静止点に下り立ち歩き回っていることになる。高等学校の卒業、大学の卒業、結婚、海の家での一週間の休暇でゆっくりする、

といったところだ。こういった着地点を別とすれば、私たちは日々の生活や仕事にどっぷりと使っている。外が見えない小さな箱のような部屋に閉じ込められているかのようだ。しかし、人生はエレベーターにはあらず。そして、エレベーターの止まる階だけが、人生の楽しみではない。来週の休暇が待ちきれない、とかはよく聞く言葉だが、人生は来週しか始まらないのか?今日はどうなんだろう?と私は思う。人生はエスカレーターに乗っているようなもの、と私は信じている。美しいパノラマの景色がいつもそこにある。チャンスはいつも溢れていて、成功への道は長く続く道だ。いくつかのステップというよりもだ。ただ医学での成功への道は、異常なくらい長く辛いものだ。

 

 

 

 


トレーニング期間をどう考えるか?舞台に出るためのただの準備期間なのか?

 

心臓胸部外科の場合、16年間の修行を要する。4年間大学に行き、4年間医学校に通い(注:6年一貫の大学教育となっている日本のシステムとは異なる)、5年間の一般外科トレーニング(この間当直は1日おきだった)、3年間の心臓胸部外科を終了したとき私は34歳だった。最初の独り立ちした心臓胸部外科医としての職を得たのはバーミンガムのアラバマ大学であった。私の友人で高校でフットボールをしていて、9年間NHLで活躍したものがいたが、その時すでにスーパーボールの舞台からは引退していた。私はまだ始まったばかりというのに。

 もちろんいい気のすることではない。しかし、成熟するのに必要な数年間のことを、最終的な満足感を遅らせる無用のステップだとみなしている人が多すぎるのである。文字通り、1日1日カウントダウンしている人が多い。まるで刑の執行のように。

 最近ある大きな大学で招請講演をしていた。講演に先立って、胸部外科のあるフェローが病院を案内してくれ、自分のiPhoneのカウントダウンを見せてくれた。そこには、1年と228日と数時間数分とあった。それは、彼の心臓胸部外科研修プログラムの残り時間であった。

 カウントダウンが終わったら、何が起こると期待しているのだろうか?人生の一場面が終わり、エレベータが目的のフロアに到着した時、自分自身、人生の中で奇跡的な変化が起こるわけではない。給料は上がるだろうし、支出も上がるだろう。それは真実だ。研修医の時は、手術室で突然の出血に出くわした時、年上の外科医が救ってくれただろうが、自分が指導医になってしまうと、つまり次のフロアに上がってしまうと、誰も助けてはくれない。そして自分がその上司になると、自分の売り上げだけ気にすればよく、部門全体のことを気にかけなくてよかった日々を懐かしく思うだろう。人生の次の段階は、思っているほどバラ色ではない。

 真ん中の息子のアレックは、高校卒業に近づいていた。アレックの友人が、私に自分たちの高校は最悪で、早く卒業して大学に行きたいと言ってきた。アレックは笑った。その言葉を予想していたのである。私が彼に言ったのは、同じことを、私についていた学生、先週の外科研修医、昨日一緒に手術した心臓胸部外科フェローから聞いたよ、と。もしきみが、人生をエレベーターのようにみなしている、つまり箱のようなものに詰められ、次の階でドアが開くのを待っているのなら、その場所で決して満足することはない。そして、到達する階がいかに高い階であろうとも、その状況は変わることはない。

 さらに何年にもわたるトレーニングは、どんな職業にも必要なことであり、それにより基礎を作り、そこから道を開くことができる。プロになるためには、精神面と肉体面のトレーニングがあるのだ。こういったトレーニングの期間を大切にすることだ。自分が成熟していくプロセスを楽しむことだ。プレッシャーの中でできるかぎり沢山のことを吸収し、自分自身をきちんと準備することができる。

 トレーニングは、今の生活を阻むような禁固刑ではない。人生は、学びと成長の現在進行形である。自分を取り巻く環境がいつも変わりつつ、年齢相応に自分自身を適合させていくプロセスなのだ。だから、徐々に上がっていくエスカレーターをすべて楽しむべきだ。

 人生のそれぞれの局面で楽しむことだ。次にはやってこない今の局面の良いところを書き出してみては?二度とは来ないようなチャンスに自己投資するべきだ。今のものを終わらせて次に行きたい、とは強く思わないように。一つ一つの局面は良いところもあれば悪いところもある。年を重ねること、学ぶことを大切にしよう。悪い局面において、よろめいて希望の光に出会うのではなく、積極的に探し出すことだ。今の現状をみとめて、年を重ねたとき今出来事の多くは見返すことになるだろうということを認識しておくことだ。そして、追体験するためにあのころにもどることはない、ということをうらやむべきである。

 

 

 

 


手術の成功のほとんどは準備・トレーニングにかかっている。

 

ダイアナ妃はパリのアルマ橋の道のトンネルの奥で中で、スピードを出しすぎた車の事故で肺動脈が破裂して亡くなった。手術室においてもこの動脈の破裂は致命的になりうる。しかも破裂は一瞬で生じる。一般胸部外科医が経験する中でもっとも恐るべきそして悲惨な術中合併症である。

 数週間前、3人の外科医の見学者がいる前で、私のチームはそれを経験した。患者の肺動脈が裂けたのである。しかし、我々のチームは、何度も何度もこの破裂に対する対応を準備していたため、さながら自動操縦のようになった。セーフティプロトコールに従って、私はすでに肺動脈のすぐ隣にスポンジを置いていたし、そしてそのスポンジを一つのアームで素早く掴んで出血している血管を圧迫した。ベッドサイドにいた助手は、非常に重要なメンバーで、3秒以内にもう一つのスポンジを胸の中で渡してくれた。彼女の素早く冷静な動きにより、出血が止まったのであり、患者の命が救われた。

 この出来事以来、自分でこのビデオを何度も何度も見返した。一人でも見たし、チームと一緒に見た。ビデオをみて、自分たちの対応の時間を測定し、うまくいったことを確認した。そして、さらにできることはなかったかということと、最初に動脈の損傷を防ぐことができなかっただろうかということを考えた。

 このビデオを見るたびに、ある事実がより明らかになる。全ては練習・準備にかかっているのであり、そして自分のチームメイトを練習により改善することができるのだ。この状況で良い結果が出たこと(肺動脈が裂けてもリカバリーできたこと)は、私のチームが、他の手術チームと同様、何度もこの事態に備えていたからである。練習することで、プレッシャーの下、チームの技能と対応能力が磨かれるし、悪い状況に対する備えができるのである。

 

 

 

 


具体的なチーム練習の方法論

 

毎回効率的な練習をするため、練習メニューをフォーマットすることが重要だ。チームメンバーの多くは、チーム練習の目的やその練習時間内での自分の役割を十分わかっていないだろう。個人個人は、自分の技能を研ぎ澄ますよう努力するべきだが、それは自分だけの練習時間内にできるはずだ。チーム練習も目的は、全ての瞬間を共有し、チームの勝利の可能性を最大限にするために使うべきだ。

 ほとんどの試合、仕事上の取引、その他のことでも、物事は間違った方向に進みうる。スポーツ関係や仕事上の会合と同様手術においても、潮の満ち引きや勢いの変化がある。チームは、こういったシナリオに肉体的にも精神的にも機敏さを持って、頭の中で備えておく必要があるし、良くない出来事に対してはあらかじめ対応を決めておく必要がある。

 例えばの話だ。私がリトルリーグの練習においては、内野手には次のようにいってプレッシャーをかけている。チームとして、9つの連続プレーをエラーなしにするまでは家に帰れないと。こうすることで、選手たちがこういったエラーに対してチームとしてどのように反応するかを知ることができる。エラーが起こってからすぐに話し合うとき、エラーそのものではなく、エラーに対してどのように対応したかを話し合うのである。そしてその対応を振り返り、同じ種類のエラーに対してチームとしてより良い対応ができるように振り返るのである。

 こういったことが練習の基本である。それぞれのチームメンバーは、物事が間違った方向に行った時のシナリオにおける対応を準備しておくべきである。それに加えて、不利な状況とそれに対する精神的肉体的対応をセットにしたリストを書き出しておくのは良いアイデアで、そうすることで各々のエラーを挽回することができる。(手術室において私たちがしているように、不利な状況に対する感情的な対応を練習することができるしそうするべきなのだ。)こういった状況に備えること、従業員が危機的状況においてどのように行動するべきかについてガイドラインを作っておくこと、それがチームの行動を改善する。それがチーム練習のすべてである。

 

 

 

 


自信過剰は痛い!

 

Cerfolio先生は自信を持つことは大事だが、過剰は痛々しいことを改めて述べている。

 

どれほど多くの賞を取ろうとも、どれほど多くの成功を勝ち取ったとしても、毎日敵はやってくるのだ。評判で試合に勝てるわけではない。我々が世界中で、もっとも優れたもっとも忙しい胸部外科センターだからといって、癌が患者の胸から飛び出てくれるわけではない。プレッシャーのかかった状態で、外へ出て、仕事をしなければならない。出血させないように、動脈と静脈を剥がして結紮しなければならない。小さな腫瘍に対しても。毎日毎日、一日何回も、である。敵は、どんな形であっても、どんな大きさであっても、どれほど可能性が低い者であっても、決して去ってくれるわけではない。

 このことは、他人から褒められるたびに思い出すべきである。もっと若い、もっと頭の良い、もっと速い、もっと動機の高い敵が、近づいているということを思い出すべきである。あなたが自分の載っている新聞の切り抜きをじっくりと読んでいるあいだに、敵はより強くなっているのだ。

 新聞の切り抜きをすることは悪いことではない。そうすること自体はよい。第1章で「満足のライン」として提案したところである。しかし、芝生の上で芝刈り機がつけた印のところで何度も何度も再開しても、もう一度芝生が生えてくることを防ぐことはできないし、それを刈り取る準備もできない。自分が掲載された新聞の切り抜きを読み返しても、落ち込んでいたり退職間際でない限りは、仕事には役に立ってくれないのである。自分のお気に入りの切り抜きを読み返しても、試合前の準備にはならない。だから、自分の記事を切り抜いて、一度目を通し、目につくことの少ない、安全な遠い場所に保管しておくことだ。結局のところ、人生の後半の退職パーティーやひょっとしたら自分で乾杯のスピーチをする際に必要となるかもしれない(そして覚えておいてほしいのは、我々の社会はロールモデルをすぐに作ることは大好きだが、それを捨て去ることも同じくらいあっという間にしてやってしまうということだ。

 

 

 

 


自分にとって内なる炎とは何か?

 

自分を駆り立てる「内なる炎」がどのようなものであるのか、正確にわかっている人々もいるが、わかっていないひとも驚くほど多い。私の場合、ある日の午後にさかのぼる。

 中学一年生の時に、ある日学校から家に戻ったとき、両親がひどく狼狽していた。両親はすすり泣きながら、格調高い居間ででお互いを支えあっていた。その部屋は、クリスマスイブや感謝祭のときしか入ることはなかった部屋である。あれほどまでに、母と父があれほどまでに傷ついて見えたことはなかったし、その日以前に父が泣いているところは見たことがなかった。

 私は世界でもっとも偉大の両親をもっていると信じていたし今でも信じている。両親はいつも子供達を第1に考えてくれたし、人生の教訓を子供達に教えるということに時間を費やした。それはこの章の中でも書いている。仕事をする上での倫理と人生の中での価値観である。両親がこんなにも感情的に動揺しているのは何故なのか、想像ができなかった。結局のところ、その日、私の弟が学校で深刻な問題を起こしていたということだった。

 その日の午後、自分の両親を悲しませるようなことは決してしないと、誓ったことを覚えている。そして、それを守り続けることを決心した。両親が私と私の行動を誇りに思えるよう、そして、私が決して両親を悲しませたり、傷つけたりしないよう、必要ならばどんなことでもすると決心した。これが私の内なる炎であったきたし、これまで私を動かし続けてきたものだ。

 自分を最大限高めるために、自分の内なる炎が何なのかと知ることが重要だ。何が自分の動かすのか、考えてみよう。なぜ毎日朝早く起きて、一生懸命仕事をするのか?家族のため?子供のため?両親のため?自分のため?自分の答えがわかったら、書き留めておこう。書き留めるのが気が進まなかったら、家族や仕事場のチームメンバーと、心を開いて話し合ってみよう。言葉にして表現することが重要で、形にすることが重要だ。

 私たちの目標や希望があまりしっかりとしていないために、長期の望みを叶えるのに必要な行動変容を続けられない、ということが多すぎるのだ。数週間という短い期間を過ぎると、自分の望みは消え去ってしまうことが多い。だから、その炎をどうやったら燃やし続けるか考えることが重要だ。その炎が燃え尽きるほどであってもいけないが、日々自分の燃料になるくらいでなければならない。

 自分の内なる炎を書き留めて置いた後は、その炎を長期に燃やし続けるための具体的な方法を書き留めておくこと。この熱意を持ち続ける方法と取るべき手段について、具体的に考えるべきだ。個人としてそして組織として、その熱意を持ち続ける方法を。

 

 

 

 


Cerfolio先生が胸部外科医を目指すきっかけとなったのは何か?

 

1986年のある夜、午前3時30分のことだった。急変を知らせるポケットベルの喧しい音で深い眠りから目が覚めた。急変の病室に着くと、その病室にはすでに9人の人がいた。太った高齢の患者さんの心臓は止まり、交代で心臓マッサージと蘇生処置が行われていた。相反する指示が飛び交い、我々の多くは患者を救命しようとはしていたが、お互いの邪魔をしているようなものだった。その部屋は完全なカオス状態であった。

 つまり、心臓胸部外科の高学年フェローが到着するまでは完全なカオス状態であった。彼はすぐに状況をコントロールしたのである。そこの人々に静まるように伝え、患者治療に関係の薄い人は部屋の外に出るように言った。だから私は影に隠れた。彼は、高学年の内科の研修医と話した後、長い針を手に取り、患者の左胸部に注意深く刺した。その針は、心嚢内(心膜で囲まれた空間のことであり、通常は心臓が空間を満たすように入っている)からの血液でゆっくり満たされた。その血液は、心臓が通常の拍動をすることを妨げていたのであった。結果、患者の心拍数や血圧はゆっくりと元に戻り、患者は生還した。その外科フェローは、当直室に戻って良いかを確認してから去った。

 この出来事は、心臓胸部外科を自分のキャリアとして考える最初のきっかけの一つであった。心臓胸部外科医は、最も厳しい修練を乗り越えた人々であり、その中でも最高の人間だけが、活躍することができるのだ、ということをいつも耳にしていた。そう考えれば考えるほど、心臓胸部外科医になるという思いは募った。ひょっとするとこれが、私の登るべき頂きかもしれないと。

 なぜ本能的にこのキャリア、つまり外科の専門のなかで、知る中で最も厳しい道を選んでしまったのだろうか?もう一度、自分の生まれ育ちを振り返ることになる。最も高く、最も厳しい頂を目指す、特にスポーツにおいて目指すことは幼い時に教えることができる。そして自分自身の子育てのこととなると、同じ教えを子供達に伝えようとした。

 

 

 

 


胸部外科医はリスクをどのように捉えるべきか?

 

手術室のライトは、野球場のライトと丁度同じだ。熱く、強く、そして世界の中の非常に小さな領域に、信じがたいほどの注目を集める。これらのライトの白く、熱く、はっきりとした目には、自分の仕事を隠すことは不可能だ。自分の仕事はすべての人の目にさらされる。

 時に、ある特定の状況ではライトはより強くなる。ちょうどキャリアの始まった外科医に対して私が与えるアドバイスの一つに、目立つような手術死亡は、最初のころは避けなければならない、ということだ。どんな患者の死亡も明らかに悪いことであるが、目立つような死亡というのは、患者が病院の職員であったり、幼い子供であったりということだ。明らかなことに、こういった死亡のすべては、通常の死亡よりも長きにわたって記憶に残るため、ちょうど始まったばかりの外科医のキャリアへのリスクはかなりのものだ。しかし、時にはそのリスクを承知で立ち向かわなければならない。

 私がまだアラバマ大学に来て9か月であったとき、テキサスからの新生児の転院を受け容れた。彼女の名前はアンナ。両親は医師で、母親は外科医であった。アンナはまだ生まれて48時間であった。アンナは気管狭窄という気管(気道)の異常を持って生まれて来ていたため瀕死の状態であった。長い領域にわたって気管が非常に狭くなっており、特に、頸部にも心臓の裏側にもその狭い領域は広がっていた。この異常のためアンナは、人工呼吸器のサポートがあっても呼吸することできていなかった。この気道の直径を大きくするような緊急手術をしなければ1-2日以上生存することはできない状態であった。

 このsliding tracheplasty(気管形成術)と呼ばれる手術の症例数は1年に数えるほどしかなく、人工心肺を使用せずに行われる。リスクは高い手術だ。気管という組織は非常に小さく非常に繊細なため、正確に手術しなくてはならない。メイヨークリニック出のトレーニング期間に、sliding tracheoplastyを見たこともなければ手術に入ってこともなかった。大人の気管の手術をしたことはあった。つまり、その手術は大きなリスクを抱えることになった。

 私は自分の師匠たちに電話をかけた。そのうちの一人は、今のキャリアではあまりに無謀だし、危険すぎるし、早すぎるのだから自分で手術するのではなく、数症例の経験がある外科医に送るべきだといった。確かに良い助言であったが、その子は病状が悪く、もう一度病院を移すことには耐えられないだろう。だから私はよく朝自分で手術することに決めた。

 アンナの手術はリスクの高いものだとわかっていたのでプレッシャーは相当のものであった。  手術の前の日、自分で準備をしている中で、同じような昔の手術の術中写真を引っ張り出した。子供は手術台では非常に小さい。私は過去の小児の手術をした時の写真を取っておいたことが、次の日の術野を正確に思い描くことに非常に役立ってくれた。手術室の中で、この小さな幼児と、自分と自分の手が関わることができた。手術室、手術台の上の子供を思い描くことができ、手術室前夜に自分の頭の中で手術室全体をシミュレーションすることができた。祈りと寝返りとともに。

 その日は、私と私のチームに神の祝福があった。光は私たちを祝福して照らした。アンナの経過はよく、人工呼吸の必要はなく、4日で自宅退院した。数年にわたり両親からクリスマスカードを毎年貰って、ある日アンナ自身からカードをもらった。まもなく大学に入り、一部リーグでスポーツをするとのことであった。彼女は、今までの弱点を克服したことは明らかであった。

 スポットライトが一番輝いているとき、一番いい仕事をするべきである。アスリート、ビジネスマン、競技者は個人としての生活のみならず職業面でも、重要な局面を認識するべきである。大きな取引を仕上げるときやスーパーボールで競技しているとき、結婚相手を決めるときなどは、重要な局面として明らかである。だが、それほど明らかではないものもある。super-performerはこういった瞬間とその重要性を認識し、その瞬間に輝けなければならない。時には、失敗すればより深刻な状況になる場合もあるのだから、そういった場合を認識しあらかじめ適切に備えて置くことが重要だ。ちょうど、ピッチングマウンドでのロビーや、アンナの手術の前の私の長い夜のように。

 人生には特別な時があるし、スポーツでも特に重要な局面があってそういった時には、大胆に、そして勝つためのリスクを取らなければならない。まず、リスクを十分に考えずに対価を考える人が多すぎる。リスクを考えるということは、自分の技能の問題だけではなく、危険を犯す時期を考えるということも含まれている。時には、そのタイミングが、自分のキャリアにとって最適ではないこともあるだろう。例えば、自分の会社が現在損益を出しつつあ理、リスクをかけるような冒険をすれば、かなり上向きになるかもしれないが、あるいは破産に追い込まれるかもしれない。こういう時はリスクを犯す時期ではない。リスクを回避すべき時期も存在するのである。もしキャリアを決定するようなものであるなら、メリットデメリットを十分に考え、客観的な決定をするべきである。

 しかし、手術中あるいはコーチをしている際にはたった数秒で決定しなければならないように思える。その場合、リスクを犯すと決心したら、正しいと思う選択をするべきだ。絶対に間違っていけない時もある。それは、生後2日のアンナと私の場合だ。その場合は、一旦リスクを受け入れたなら大胆に進むだけだ。自分の本能を信じ、大胆になり、そしてその結果を受け入れることだ。


 


仕事と家庭の両立?

 

この辺りは結構デリケートな話題であるが‥‥こんな考え方もある。

 

私がメイヨークリニックでトレーニング中の、あるクリスマス休暇のことだった。私は実家に帰っていたが、父に急患があった。私はニュージャージの医師免許を持っていたため(注:アメリカでは州ごとに医師免許が発行され、例えば大阪の医師免許は東京では通用しないということになってしまう‥)、私も同行し手術に入った。その経験は楽しくもあり誇りでもあった。外科医としての父の技術は凄かった。次の日は、近くの池に、弟と父とアイススケートに出かけ、ホッケーもして遊んだ。父は当時70歳であったが、まだ若々しかった。

 翌日私はメイヨークリニックでの仕事に戻り手術していた時に、母から電話があり、父が心臓発作を起こしたことを伝えられた。それはショックだった。いったいなぜ?昨日はいつも通りに見えたし、不死身に見えた。氷の上で、池の上で、そして手術室の中で、ちょうど昨日絶好調であった。父が適切な治療を受けるようにするのが私の役目だし、この困難の乗り越えるようにするは私の責任であった。その翌日には両親をメイヨークリニックまで飛行機に乗せて連れてきた。父は心臓カテーテル検査を受け、心臓手術の一つである3本バイパス術を受けた。私は当時フェロー(注:専門的なトレーニングを受ける立場)であったため、仕事が山ほどあった。いくつかの仕事をキャンセルすれば、と提案してくれる人間もいたが、その仕事を大切にしつつ両親のそばにいる方法はないか考えあぐねていた。

 自分には職務があると信じていた。自分の指導医に対する職務、自分の患者に対する職務、同じ部門の中の、他の研修医や専攻医に対する職務があった。父の3本バイパス手術のために仕事を休むことなど考えなかった。頭に思い浮かぶことすらなかった。きちんと調整すれば、自分の仕事に対しても家族に対しても、すべきことを完遂することができる。つまり、両方満たすということをどれほど強く心に思うかということと両方満たすための良いシナリオを探す心意気があるかということなのである。私はそれを「両立のシナリオ」と呼んでいる。私は両親のそばにいてやりたかったし、その心臓手術を必要としている二人の患者さんの手術もする義務があった。次の日、ある手術室でミネソタから来られた年配の男性に、冠動脈バイパス手術をし、私の父は隣の手術室で冠動脈バイパス術を受けていた。私の計画としては、術前の父と一緒にいる。そして自分の1例目の手術と2例目の手術の間に、父の手術を覗いて、待合で待っている母に時々報告するということであった。こうすることで、自分の職務も話すことができるし、そればかりではなく、待合室に座って何も知らず何もせずにいるよりも気が休まるのであった。そしてこの計画はうまく行った。

 

 

 


さらに次の一章は日本人の働きかた改革に疑問を投げかけることとなる。どちらが間違っているというわけではなく、どちらも正解なのだと思う。

 

私の人生において、仕事と家族の用事がぶつかったように思えたこの時だけではなかった。それは、1992年私がメイヨークリニックで外科研修医であったときのことであった。火曜日に非常に稀な手術を入れたときのことだ。その手術は、大動脈ー両側総頚動脈バイパス術であり、その手術とは大動脈と、頸部の2本の頚動脈を繋げる手術だ。非常に珍しい手術で、私は数日前から楽しみにしていた。しかし、もう一つ楽しみにしていることがあったのだ。それは第1子ロビーの誕生である。ローレインは予定日より1日過ぎており、手術をすっぽかすことで自分の指導医をがっかりさせたくなかった。私たち夫婦は、言葉柔らかに産科主治医を説得し、私が月曜日午後仕事を終えるや否や、誘導分娩のため入院させてもらった。誘導分娩はうまくいき、ローレインはまるでお手本のように、ロビーは1992年7月14日午前6時7分に生まれた。子供誕生は人生の一大イベントと言われるが、我々にとってもそうだった。両親となることに酔いしれていた。しかし私は午前6時45分には、この珍しい手術の準備のため、手術にいる必要があった。最近は、男性医師は子供が生まれた時に2−3週間の育児休暇をとる。私の時は15分の休暇を取ることにも罪の意識があった。ローレインには、手術室に間に合うために走っていかなければ、というと彼女は彼女だけの微笑みを浮かべて、「わかってる。愛しているから」と返した。私たちは皆人生の中でしなければならないことがある。家族や同僚に対して、約束をはっきりと表現したり書き留めたりしなければならない。さらに、生活においては暗黙の約束もある。しばしば、職場における義務は、家庭における義務と相反する。しかし、この2つは互いを排除するかといえば、そうではない。そのように勘違いしている人も多いのだが。子供たちの誕生日会、卒業式、そしてリトルリーグの試合にいてやることも出来るし、それでいて自分の仕事をクオリティーを保って終えることも出来るのだ。しっかり準備すればである。スーパーパフォーマーはこのことをすぐに実現してしまうのは、いつも心の準備ができているし、両方をこなす方法の模索するように戦略を練っているからだ。仕事上の義務も個人的な義務も、自分のスケジュールを数週間前から調整することで両立が可能である。そして友人や家族に自分の仕事を伝えておくことが必要だ。職場の同僚には、次の重要な日程やイベントを伝えておき、自分がその日職場にいないということを知っておいてもらうこと。同様に自分の配偶者や子供達には、職場で外すことのできない重要な日程やイベントを伝えておこう。家族には、自分は仕事上そして職場の仲間に対して義務があることを知ってもらい、時間通りにこれないかもしれないし、家族のイベントに参加できないかもしれないことを理解してもらおう。もし、仕事を早退したり休んだりして時間を作らなければならないのなら、そのずっと前から埋め合わせを始めなければならない。

 

 

家族の病気や真の危機(本当の真の危機はごく少ないはずだ)のような予期できないものについては、準備は不可能だが、対応は計画できるはずだ。今の習慣では、家族の危機や家族の不幸で職務全てを完全に投げ出す人が多すぎるのだ。こうすることで、同僚には不当な負担がかかることが多く、その結果その同僚も同じような行動パターンをする。家族の危機、という言葉を、意味を曲げて使ったり、間違った使い方をする人が多すぎる。私たちの習慣は、家族を含めて健康上の問題を全て、理解し関心を持ち共感することだ。この状況を心に描き、この方針を曲げることなく、職場の人間に対しても心から気を使うべきだ。しかしながら、数ヶ月に渡り2週間毎に、家族や親友のお葬式に文字通り参列しているような人を数名知っている。我々の社会において、家族の健康を大事にするということは、こんなことではないはずだ。職務上の義務、または家族に対する義務を果たそうできないと決めつけてしまう前に、両方を達成する賢明なやり方を考えることに少し時間を費やすべきだ。父親が心臓手術を受け、自分は自分の担当の手術を行うため手を洗っている時、父の胸骨が切られているのを手術室の窓を通してマスクをしつつ見れないかもしれない。自分は自分独自の環境にいるのだ。そしてその日の終わりには、自分を誇りに思い幸せに感じるだろう。なぜなら自分は両方を幸せにし、両方に対する義務を果したのだから。

 

 


休暇の使い方?休むのか、楽しむのか?ここでも彼の考え方が如実に現れている。

 

休暇を取ることで、心と体をしっかり休む時間ができるということを支持する重要なデータがある。しかし毎日ギトギトした物を貪り、寝坊し、運動もせず、呑んだくれるというのは休暇にするべきことではない。重要なのは心と体に新たなやり甲斐を与えるということなのだ。

 だから休暇の間、精神的にも肉体的にもやり甲斐のあるイベントを計画しよう。そして、家族全員を巻き込むものが良い。しっかりリラックスすることは大切だが、それには本当は数日あれば十分だ。新たな「やり甲斐」を見つけるために休暇を使おう。ローレインと私は1年に数日の休暇を取るだけだ。クルーズ、スキューバ、木登り、フロリダの両親を訪問するといったことをする。フロリダでは近くの野球公園に行き、子供たちと練習したり、ビーチスポーツをする。ほとんど毎日家族としてフィットネストレーニングしている。P90X, T25, Insanity, Asylum(注:DVDなどで出ているエクササイズプログラム)といったエクササイズをやってみたことがある。親が楽しめば、家族も楽しむ。

 競争し、より賢く、より良い体力が、恐れからではなく楽しみととなるような雰囲気を、家族の中でも、仕事でも、作るべきだ。アメリカという会社は、仕事と楽しみを一緒にするというコンセプトを大切にするべきだ。社長、つまりチームリーダーは、チームメンバーを集めて、少なくとも年に1回職場外で、振り返りの機会を持つべきで、スポーツやそのほかのアクティビティーのなかで振り返りを一緒にすると良いだろう。振り返りをすることで、従業員は、繰り返す仕事の厳しさから距離を置くことができるし、自分をリセットして新しい形で発火しながら、集まって競争することができる。(新しい問題を知るということは、頭脳にとって常に良いことなのである。)リーダーのためのワークショップは、チームをどう作りあげるかということと従業員間の関係づくりに役立つ。この「休暇」により休息と充電が得られるのだ。

 そして夜の時間は、食事とワイン片手に、お互いをさらに知るために使うことができるし、重要な人間関係をつくれば仕事の生産性も上がる。同僚の配偶者や大切な家族と知り合って話をするべきだ。こうすることで、職場においてお互いをよく知り、彼らは単にあなたが時々いらだってしまう相手ではなく、誰かの母親であったり配偶者であるということを知る。こういった人々と関りを持つことで、お互いを少しはよく理解できるし、お互いがお互いを頼りにしていることがわかる。

 最終的には、休暇の中でうまく取引をすることで、自分の仕事生活をもっと直接休暇に組み込む方法を見つけることができる。多くの人は、私のように、休暇中に父と手術する、ということなんてしないだろう。しかし貧しい人のために世界の遠くまで行って手術をするという外科医は多い。あなたに当てはまるかどうかは別として、自分の技能とのつながりを失わずに休暇に出かけるというのは考えに値することだ。

 

 


プレッシャーを想定した練習の場面を作ること!

 

練習で指導をしている時、わざとプレッシャのかかる状況を作ることが大切だ。例えば、バスケットボールの練習で私がコーチをしている時は、全員に連続でフリースローをさせていた。私は、12人全員が成功することを求めていたので、プレッシャーは次の選手がシュートを打つ時にかかっていた。もし彼が失敗すると、ゼロからやり直しとなる。さらに、一番下手な選手が最後に来るように、いつも私はそのようにしていた。チームとして成功するまで、誰も家に帰ることはできない。こうすることによって、チームはお互いの結びつきを強め、一番上手な選手が一番下手な選手が上手くなるように手助けをすることができる。このバスケットボールと同様のことを、野球の内野練習でも行なっていた。9つのアウトを連続でとらなければならないようにしていたし、私は全員に対してゴロやフライをノックしていた。そしてまた、いつも一番へたな選手を最後に持ってきていた。もし彼がエラーをすれば、チームとして最初からやり直しである。こうすることで、チームメートはお互いに引っ張り上げ、一人一人が責任を持つと言う感覚を養う。もちチームがエラーをすれば、一人一人ではなくてチームにとって痛手となる。彼らは、1番の弱点が克服されてこそ強くなれるとわかってい他ので、お互いを強くする必要があった。Superperformerは自分同様にチームメイトを改善することの重要性を理解している。

 自分の不安をどのように克服するかは、この本で後ほど詳細にお話しするが、プレッシャーのかかった状態での自分のパフォーマンスの重要な部分である。視覚化すること、呼吸を利用することといった技術を使うことにより、重要な瞬間に自分の心を鎮めることができる。不安を増幅させるような出来事(大試合や大手術)において自分の頭脳が刺激されたならば、次のステップとしては、自分の頭脳をコントロールして、今までの1000回の練習通りに、自動運転よろしく体が現在のステップを踏むようにしなければならない。数秒先に起こることを頭の中で描けるようになれば、自分の肉体技能は余裕を持つことができる。自身の筋肉の記憶は、自分が今行っているステップを敷衍し、心は、肉体から一歩離れたところでみることができる。一歩先の、ありとあらゆる可能性を考えることが必要だ。

 私が自分の息子に落ち着いて心肺蘇生ができたことに感銘を受けた人もいるようだ。しかしながら、人工呼吸と人工呼吸の間には、ヘリコプターが着陸できるように芝生からスポーツ器具を動かし、自分の家が良く見えるように電気をつけ、溺死から救命する専門家を病院に呼ぶということを考えていた。本質的にはこういったステップを考えながら、自動運転のように心肺蘇生を行っていたのである。心肺蘇生やそのやり方には頭を使うことさえなく、そのせいで落ち着いて行っているように見えた。その代わりに、自分の望む結果(息子を生還させ元気にすること)を得るために、次に何をするべきかをずっと考えていた。そして、すでにお分かりのように、祈りと神のご加護により、望んでいた結果を得られたのである。

 

 

 

 

 


毎シーズン新しい投法を学べ(外科医にとっては新しい技術!)

 

今や世界中でCerfolio先生が胸部外科のロボット手術を最も多く行なっているが、始まりはどうだったのだろうか?先生の思いを読み取ってみる。

 

私が最初にロボット手術を見たとき、正直なところ高価な装置だと強く思った。高すぎるし、患者の経過をよくするわけではないと思った。そして、なぜ私が学ぶ必要があったのだろう?私たちはすでに、世界で最も忙しく最も高い評価を受けている胸部外科プログラムの一つであった。我々の手術を受けに来る患者や我々のチームが手術するのを見学に来る人たちが世界中にいた。世界中で最高レベルの結果と最高レベルの利益を伴っていた。

 にも関わらず、ロボットは手術を行う上で完全に新しいやり方であった。私は一から学び直す必要があった。パラダイムシフトである。私の仕事の速度を落とすものであったし、私のチームはまた学び直す必要があり、私の能率を落とすものであった。そしてひょっとしたらロボット手術を学ぶ上で、患者の体を損傷するリスクさえあった。しかし、そのテクノロジーで何ができるのかを知った後、今まで胸部外科で採用されなかったのは、治療効果の問題ではなく、政治的理由と財政的な理由によるものだということを知った。そして、ロボット手術は、今後の自分の患者により良い医療を提供できる最良の方法だと知ったのである。

 滑り初めは非常に厳しいものであったが、2年後には世界で最も忙しいロボット胸部外科手術プログラムを作り上げ、出血、疼痛スコアを減らすことができ、死亡率は1.4%から0.2%に下がった。改善点はは、ロボット手術だけにとどまらなかった。私は研修医をトレーニングして、ひどい出血の時のプレッシャーの元でもしっかりと確実に手術できるような手術器具の持ち方を教え込んだのである。

 このプロセスは、すでに確立されているアスリートがさらに上を目指す時のものを同じである。例えば、アスリートは新しいショット、動き、器具を試すのは通常のことである。タイガーウッズは数年前大成功を収めたが、それでもプレッシャーの下でも可能なようにスウィングを改造した。サイ・ヤング賞を取るくらいの投手は、次年度はさらに、上を行かなければならないことを知っている。

 

 


胸部外科医が競争をする意義

 

内輪の中での競争は勿論一つのポイントだ。チームを作り上げるという観点では、ハイスペックの人々の輪の中で競争させることは、手術チームを強くする最良の方法だ。私は世界で最高の胸部外科医を雇っている。教授や施設長の中には、自分の年下の外科医が良すぎると、自分たちの地位を最終的には脅かし自分たちが立ち去らざるを得ないかもしれない、と恐れる人たちもいる。現実にはそれはありうることだし、そうなるべきである。激しい内部競争を起こすような人々を雇うことによって、自分たちのプログラム(注:医療システム)全体を強くする。良いリーダーの周りには、最高のスペックの人々がいるものだ。その人々によってリーダーはさらに成長する。内部でしっかり競争することは、外部での成功に必ず必要だ。

 私ほど競争の好きな人間はいないとしても、誰もが競争している。ただ重要なのは、手術は究極的には競争ではなくて生きるか死ぬかの問題だということを覚えておくことだ。患者の命がかかっているのであり、それは私たちの仕事にかかっているのであってお互いにいかに競争するかにかかっているわけではない。手術チームにいる同僚の手助けをすればするほど、患者によりよい医療を提供できる。赤ん坊が最初に歩き始めるときの環境と同じ環境を作り出すように努力しなければならない。幼児がバランスを崩して転んだところで、馬鹿にする人はいない。

 アラバマ大学の周囲には病院がたくさんあるが、そういった病院からわれわれの技術を学ぶために見学に来る人は多い。私は喜んで彼らを教えているし、仕事を休んでまで見学にきていることを歓迎している。彼らが改善すればするほど、われわれも改善するはずなのだ。潮が高くなれば、必然的にすべてのボートが高くなるのであるし最も重要なのはより多くの患者により良い医療が提供されるのだ。

 こういうわけで、私にとって教えることはメリットのあることとなったのである。医学生、研修医、専攻医を教えることを常に楽しんできた。教えるときは、単に講義をするのではなく、ソクラテス式問答法を用いてきた。学生の答えが間違っていた時、かならず正しい答えを覚えるだろうが、講義形式で答えを示してしまうと、もっと簡単に忘れてしまう。外科医は自分の間違いから学ぶのであり、会合ではお互いの間違いを話し合うことで学ぼうとするのである。

 

 

 

 


 悲惨な状況に備える

 

「手洗いナースのテーブルの上にある、その変わった形のサテンスキークランプは何のためですか」とブラジルからの見学の外科医が尋ねた。彼が言っているのは、非常に長い、細い血管鉗子のことだ。

 「ほとんど使うことはないのだが、1年前のある日手元に置いておいてよかったんだ」。その時私は、肺癌を患った若い女性の、単純な肺葉切除になるはずであった手術をしていた。しかし、血管用のステイプラーを下肺静脈(肺から心臓の左側に血液を戻している太い静脈)にかけた時、文字通り心臓の根元付近にはまり込んでしまったのだ。

 本当のトラブルであった。自分の取れる対応手段は限られていた。引っかかっている血管用ステイプラーをただ引っ張って、あるいはステイプラーの顎をこじ開けようとできなくはなかったが、心臓の根元に大穴を開けてしまうリスクがあった。こうなれば、大出血となり、そして心臓の左側に空気を吸い込み、脳卒中に至る可能性がある。幸運なことに、そして入念な準備の結果であるが、そのような悲惨な状況に備えて、長いサテンスキー鉗子を手元に置いていた。私は心膜(心臓を包んでいる膜)を開けて、心房から肺静脈を剥がして、そしてそのサテンスキー鉗子をステイプラーの下に滑りこませた。ステイプラーとサテンスキー鉗子の間で静脈を切り、ステイプラーを術野から外に出し、その心臓の根元の静脈を縫合して何の問題も生じなかった。

 真の意味での準備は、時間を要するしSuperperformerは間違って起こりうる全てのことを想定しなければならない。手術室においてのみならう、スポーツにおいても同様だ

真の備えは、スポーツ、人生、手術において多くの形態をとる。合衆国の大統領がバーミンガムに講演に来る2週間前、数名の政府関係者の訪問を受けた。彼らは、私とそのほかの外科医とともに、大統領が銃撃された際に備えて、スタンバイするように依頼した。このことが意味するのは、大統領がバーミンガムにいる間ずっと、手術室を一つ開けておかなければならないとういことだ。彼らは私のところまできて、そして手術室まで来たばかりではなく、考えうるすべての専門の外科医に話をしたのである。大統領が受けうる、あらゆるタイプの外傷に備えたのである。講演会場からアラバマ大学病院までの詳細のロードマップ、病院内の詳細な地図、手術室、病院の階段ホールにいたるまでの地図を持っていた。翌日には、シークレットサービスの人間が、屋根の上で備えているのを見た。たった4時間の、アラバマ州バーミンガムでの訪問であるのに、彼らの備えは印象深かった。幸いなことに、彼らの技術は必要ではなかったが、このことはほとんどの災害にとって当てはまるのである。

 自分たちは人間のことに関する限りは、悲惨な出来事や過ちからは完全には逃れることはできないとわかっている。幸運なことに悲惨な出来事はそうそうおこるものではないが、そういったことに事細かくそして本当に備えることで、実際に起こった際のストレスを防ぐことができるようになる。そして備えること自体がいくつかの災害を防ぎうる。なぜなら備えること自体が、災害がまずどのように起こるのかという問いかけをするのだから。


 

 

 

 

逆境への対応で人格がわかる

 

ある土曜日の午後家に歩いて帰ってきたとき、みぞおちの不快感におそわれた。その感覚は、自分のしたことを恥ずかしく思うときの感覚だ。私はちょうど、バスケットボールのリトルリーグチームのコーチの仕事を終えたところだった。我々は勝ったが、私は審判に向かってそして自分の選手に向かって怒鳴ったことを後悔していた。さらに悪いことがあった。やや年配の夫婦が席に座ってお孫さんが敵チームでプレーしているのを見ていた。夫の方は数年前に私が手術したところで、試合後私の所に来て、「こんな強い外科医」に診てもらって良かった、と言った。しかし、彼は、私のお粗末な態度にうまく言葉をかけてくれただけだということをわかっていた。

 私はその日、試合後家で座りながら、自分自身に約束した。自分は、審判、特に8歳か9歳の子供の試合の審判をコントロールできないが、自分の振る舞いはコントロールできるはずだと思った。

 そしてそのことはうまく行き始めた。あれから間もないある日、全く新しい研修医と手術していた。私は直角鉗子で肺動脈の太い枝の周りを剥がして、その鉗子をゆっくり開いた。我々は動脈の周りを完璧に回ることができた。私は研修医に全く同じ動作をして、血管の周囲を回ってくる感覚を知って欲しいと伝え、手本をやってみせた。 

研修医は、私の手から直角鉗子を手に取り、次に肺動脈に大きな穴をあけたのである。

 以前であれば、大声をあげて研修医に「バカ」と言い、簡単な手術を難しくして患者の命を危険に晒したんだ、と言っただろう。しかし、そのリトルリーグの試合のことが頭に浮かび、逆境に対する自分の対応をコントロールしようとした。研修医の過ちを非難する代わりに、その悪い結果における自分の役割を見直した。ひょっとしたら、もっと良い角度を指導するべきだったんじゃないかとか、もう少し時間をかけて手術の微妙さを教えるべきだったんじゃないかということ。逆境に対する私の対応は、成熟してきたのである。

 物事が悪い方向に向かうことは意外に多い。そんな時、仕事場では自分のチームメイトや同僚をあまりに安易に避難してしまっている。自分の同僚の間違いであることが完全に明らかで、自分は何の関係もないことが確信するときでも、自分の役割について考える価値はある。ひょっとしたら、同僚に対する信頼が足りなかったことが、失敗の一因かもしれない。自分のチームメイトを良くするために何ができるのかと自問するべきだ。自分がコントロールできないと思うことについての自分の責任を考えるべきだ。なぜならひょっとしたらコントロールできるかもしれないのだから。

 そして人生の多くの側面は、現実的にコントロール不能ではあるが、こういった出来事に対する自分の対応はコントロールできる。ネガティブなニュースに対する自分の反応で、感情的になっていたりコントロールできていなかったと判断する反応から学ぶべきだ。そういうネガティブなニュースを聞いた直後に、その対応が自分の行動や振る舞いにどのように影響しているかを理解し、次回はより良い対応ができるよう準備するべきだ。

 

 

 

いつも自分が「絶好調ゾーン」にいるためには

 

2010年6月の水曜日であった。その日は妻の乳房切除術の日であり、この本の幕開けとなった日である。職務上は私にとって普段の変わりはなかった。すでに、世界の誰よりも多くの手術(数年間立て続けに、年間1000例以上)胸部の手術を行ってきた。私は8例の手術があり、われわれの新しい外科技術と効率的な手術室運営を学ぶために3人の外科医が見学に来ていた。しかしローレインの乳房切除のため、その日はいつもと違ったものとなった。

 最初の4症例は、別々の手術室で行われ、短時間で終わり、首尾よくいった。チームと私は、絶好調だったのである。協奏曲のように、われわれは一つとなって手術をしていたのである。手術室における遅延はなく、不要な動きもなく、出血もなかった。

 見学者は驚いていた。「朝の9時30分までに、私が1週間でする手術の数よりも多くこなしている」とある見学の外科医は言った。「見学者から毎日のように聞いている言葉である。」「そしてCerf、いつもお前は絶好調だな」

 その言葉は、自分の頭の中でしょっちゅう鳴り響く。15年前にも同じ文言を聞いたことがある。地域のクラブでテニスの試合に勝ったあと、試合の相手から言われた言葉だ。

 「Cerf、いつもお前は絶好調だよな」とネット越しに握手しながら言われた。彼は正しかった。試合の中で精神面を強くし、頭の中で試合のペースを落とすことができた。過去に私を苦しめていた避けられないミスを増やさないようにしたのである。積極的なプレーをし、試合の主導権を握り、試合のペースを掴んだ。安全に負けないような試合をするのではなく、危険を顧みず危険を覚悟で試合をしていたのである。

 「好調な」という言葉は、きちんと理解されることはない、誤解されている言葉である。誰もが好調であるのだが、それを通常とは違うもので人生に一度のイベントであると考えている人が多い。そうではなくて、プロであるなら毎日、そして1日中その好調の中にいることができるし、そうであるべきだ。プロであるなら、アマチュアよりもより容易に絶好調のゾーンに入り、より長くそのゾーンの中に維持し、なぜ自分が絶好調でありなぜ絶好調でないのかをよりよく理解するのである。テニスプレーヤーとして私はこのレベルに達したことはないが、外科医としては到達した。

 重要なことは、プロが絶好調のゾーンから外れるときでさえ、自分のパフォーマンスの一番低いレベルは、ほぼアマチュアよりもずっと絶好調に近いレベルであるということだ。自分のプレーの波は、アマチュアよりもずっと狭いものであるし、自分の最高潮からはそれほどかけ離れていない。これが重要なポイントで、プロであることの重要なカギだ。休暇中でさえも、休暇中であるとはほとんど認識されない。1日1日が優れたレベルのプレーを見せなければならないのであり、結果もまた素晴らしいものであるべきだのだ。

 superperformerにとって、絶好調のゾーンにいることは、珍しいことではない。予想されることであり、陳腐なものにさえなり得る。自分自身とチームメイトに絶好調ゾーンを期待するべきだ:最初の投球からラストバッターまで、キックオフから終了を告げる銃声まで、バスケットボールの最初から終わりまで、最初の患者の皮膚切開から最後の患者の傷を縫い終わるまでである。スポーツのアナウンサがー「ほら、彼は今日絶好調の波にいる」とよく言っているが、現実の所我々プロは、毎日一日中絶好調のゾーンにいるべきなのである。私の知るほとんどの外科医は毎日そうである。呼び出しのポケベルがなっていたり、病棟の患者の問題があったり、次の患者が入ってきていたり、緊急コンササルトがあったりという、気を散らすようなことがあっても、これらは全て自信を持って対応するべきで、同時に行なっている手術のシンフォニーを妨げることがあってはいけない。

 プロとして、自分の1日が始まったら直ちに絶好調のゾーンにいることを求められる。外科医であれ、株仲買人であれ、スポーツアナウンサーであれ、自分自身の毎日の行動を認識し、それによって日々自分が絶好調のゾーンに入れるようなきっかけを設定する。自分の仕事が何であれ、自分で試合前のルーチンをセットするべきだ。こうすることで、いつも絶好調ゾーンにより容易に入ることができる。さらに、いつもよりプレッシャーのかかった状況や、気分がすぐれない日でも絶好調ゾーンに入りやすくなる。

 

 

 

 

自分のルーチンを大切にせよ

 

息子のアレックが私に尋ねたのは、生まれて3日の子供の手術の準備として、前夜私が何をしていたか?ということである。アレックは、リスクの高い手術であることをわかっていたし、私が神経質になっていたこともわかっていた。私が彼に言ったのは、自分が朝晩繰り返しているルーチンに従ったということだ。自分の不安をコントロールするために、自分自身のいつもの、馴染みのあるルーチーンを行ったのだ。具体的には、何を食べるか、いつ運動するか、どれくらい眠るか、といったことである。つまり自分の心構え(mind-set)というわけだ。

 もし常に自分が絶好調のゾーンに入ることができないのなら、自分のルーチンは間違っていることとなる。朝急ぎすぎているのかもしれない。もしそうなら、もっと早く起床するべきだ。準備万端と感じないかもしれない。もしそうなら寝る前に十分準備をしておくべきだ。ルーチンそのものを、自分不安管理の改善に役立てるべきだ。もし自分の考案したルーチンを信じることができるなら、そのルーチンは自分が準備万端で仕事がうまくいくという自信を与えてくれるだろう。そのレベルの自信を得るためには、

そのようなきっかけや繰り返しの日々の出来事によって、自分が絶好調ゾーンにはいれるのかを、より理解しようとしなければならないし、逆にどのきっかけや出来事によりゾーンにはいにくくなるのかを、さらにはゾーンからはみ出してしまうのかを理解しなければならない。

 ちょうど、「絶好調ゾーンに入る」という言葉が誤解されることが多いように、「絶好調ゾーンに居る」という言葉も同様に誤解されやすい。絶好調ゾーンに居る、ということは自分の仕事と業務に没頭した副産物なのだ。気を散らすようなものがあっても、ゾーンからでることはない。

 

 

 

 

自分の中のマイナス思考にどうやって対処するべきか?

 

もし自分の気を散らすようなものが不要なものではなくて、幾らかの時間自分の注意を反らせてしまう時、すぐに自分のペースをリセットし自分の行動に戻るべきだ。誰しも、仕事中に勝手ことが思い浮かんでしまう。今日私は自分の真ん中の息子のことが頭に浮かんで、自分がロボット支援下肺葉切除の最中肺動脈の周りを剥離しているときに、息子が重要なメールを送ったかどうか考えてしまった。「集中力を失ったこと」に対して自分を叱るのではなく、私は静かに笑って、簡単に安全に肺動脈のまわりを回った。仕事において重要なパートを行なっている最中に、今行っていることとは関係のない感情や思いを持ってしまうことは珍しいことではない。私は自分の下の人間(子供達、コーチした選手、外科の研修医や専攻医)にいつも言っているのは、仕事の途中、特に重要なことをしている最中に多くのことが頭をよぎるだろうが、珍しいことではないし、それは構わないのだと。そして、何か別のいいことを考えようとしてはいけない。重要なのは、その頭に浮かぶ出来事によって自分が絶好調ゾーンより出ないようにしなくてはならないということだ。別のことを頭の思い浮かべるのは構わない。それを認めて、次の仕事に移ることだ。

 マイナス思考のようなものもあるだろう。これも普通のことだ。試合や手術の最中にマイナス思考を持つことは、現実的なことを言えば、時にはいいことである。「その動脈に穴を開けたら、この患者の命はない」という考えは正しい。患者はその間違いから死ぬかもしれない。「もしこのパットをしくじれば、ゴルフトーナメントに勝てない」これも、多分正しい。こう言ったことは、自分が結果とその瞬間の重要さを理解しているということの証明だ。

 プレッシャのかかった状態で、自分の思いをコントロールしようとする若い外科医がなんと多いことか。なんとかポジティブ思考だけを自分に強制する外科医もいる。ただ、これはうまくいかない。なぜなら、ポジティブ思考のみをしようとするのは人間の性ではないからだ。時には自分の思考は、無作為であったり自分の行為とは無関係であったりする。その思考はそれでも良いのである。それどころか、そういった思考があるからこそ、その時に仕事がうまくいくかもしれない。

 だから、そういった思考を自由にして、手元の仕事にもう一度集中することだ。試合の大事な瞬間の直前に群衆の中の誰か、何かに気が行ってしまうことは、今の仕事がうまくいかないということを意味するわけではない。色々な思いは、単にそこにあるだけであって、自分がコントロールすれば邪魔をしてくるわけではない。

 

 

 

 

 

家族のピンチと自分の手術

 

ローレインの手術があったあの日、私は8人目のつまり最後の手術をしている時であった。それは、その8つの手術の中で断トツで最も難しい手術であった。そして、ローレインの手術が終わるまでに、その難しい手術を本当に終えたかった。というのは、ローレインが手術室から出てきたときに、回復室で彼女を迎えたかったからだ。

 私が行っていたその手術は、左肺上葉の肺動脈スリーブ切除と呼ばれている手術であった。難しい手術であったが、私は同様の手術のかなりの経験があり、教科書の1章分と手術法に関する論文を書いた経験があるほどであった。その日の3人の見学のの外科医のうち2人は、特にその手術に関して我々の準備とどのように行うかを見にきていたのである。

 そしてその手術はうまく進んでいた。私はまだ絶好調ゾーンにいた。見学者のうち一人は、開胸創が非常に深く見えること、そして開胸器を使って何とか肋骨を広げているということに関してコメントした。「そんな小さな傷でよく手術できますね」とその見学の外科医は言った。「傷をもう少し広げて、開胸器をもっと広げるか、肋骨を1本切除すればどうですか。腫瘍は大きいですし。」

 私はマスクの下でかすかに微笑んだ。以前このようなコメントを何度も聞いたことがある。私はこのような危険な手術においてさえ、この小さな傷で手術することに不安を感じなかった。私は自動運転のような状態であったし、絶好調ゾーンにいたのだ。その手術の最も大切なパートである、肺動脈を文字通り離断している間に、自分の妻を手術している外科医がその日も絶好調ゾーンにいることを祈っていたということも覚えている。そしてローレインのセンチネルリンパ節が良性であることも祈っていた。

 この本の最初を読んだ読者ならお分かりのように、実際はリンパ節は良性ではなかった。センチネルリンパ節は陽性(がん細胞の転移があった)のである。ローレインの癌は、単純乳房切除による95%の治癒率というわけにはいかなくなった。ローレインの人生は変わってしまった。私たち家族の生活も変わってしまった。つまりローレインは顔患者となり、私は癌患者の夫となった。多くの患者夫婦と同様に、私たちも化学療法について話すことになるだろう。6ヶ月ごとにCTで何が映るか我々も心配することになるだろうし、そう言った検査が「全て問題なし」であることを祈るだろう。死について、静かに考えることになるだろう。

 私は自分の注意を術野に戻したが、何かしらのショックを受けた状態であった。今までの人生で初めてのことであったが、その手術ができなくなっていた。ほんの数分前まで笑っていた、その穴のような術野は信じられないくらい深いものに見えた。そこなしのように深く、暗く、冷たく、危険であった。そんな小さく暗い穴の中でどうやって手術するのだ?自信を失った自分に問いかけた。手術器具は、十分長いわけではなくその小さな術野に届かなかった。そんな最悪の環境でどうやって手術しろというのか?このような手術の際にスタンバイしてくれている外科医を一人、呼ぶことも考えた。

   私の頭の中では、大学野球の時のもう1つの最悪の状況を思い出した。「おい7番、何か問題でもあるのか?」「なぜスタンドを見上げている?ヤジを気にしているのか?」ちょっと前に、私はショートの守備位置からファウルボールを追って、三塁側のフェンスにぶつかった。私のグローブは観衆の中に飛んでいき、また鼻を切ってしまった。ガードマンは、上半身裸でビールを飲んでいた、酔っ払いのファンから私のグローブを取り返してくれた。彼らは、以来私を揶揄い続けたのである。

 あれは単に言葉だけだ、私は自分に言い聞かせた。言葉と音は、野球やプレーのスピードにはなんの影響を及ぼさない。投球の速度や私のプレーには影響はない。私の野球のプレーには影響しようがない。私はその日4打数3安打であった。

 同じことを私は自分自身に言い聞かせた。ローレインの手術を担当した外科医の言葉も、言葉に過ぎなかった。言葉で私の手術が影響することはありえない。私の術野、視界、手術の技能に影響することはあり得ない。私はそうさせない限りは。ちょうど私がその野球の試合で、満塁の状態で2塁打を打ったのと同様に、私はその悪口の打ち勝って仕事をしたのである。むしろそうしなければならなかった。私の患者が安全に手術室を出られるかどうかは私にかかっている。外野の騒音を遮断するために私はトレーニングをしてきたのだから、この仕事を遂行できなければならない。

 私が述べたように、私はチーム練習を指導するときに、外野の騒音と邪魔を敢えて作り出してきた。自分の子供たちがフリースローを裏庭で練習しているとき、子供たちに嫌な言葉を浴びせたものである。子供たちが6歳、7歳、8歳との時に、野球をしたり他の競技をしている時、たとえばボードゲームも含めてであるが、他愛もない話をしたものだった。子供たちと卓球をしている時、彼らの注意力をそらすようにどんなことでも行なった。その後、子供たちが私の嫌な発言をどのように対処したか、どういう戦略で無視したかを振り返った。そうすることで、自分の集中力が妨げられ、自分が混乱するというシミュレーションになるのである。ちょうどレブロン ジェームズ(バスケットボールの選手)が2013年の優勝決定戦のプレーでの、「自分の敵」への文言のようだ。「私が他人の言葉を気にすることはあり得ない」この優勝決定戦は、2回目のベルで終演となった。観客、メディア、その他誰もが自分の仕事に影響することは許してはいけない。

 

 

 

勝ち目のないシナリオをどのように受け入れるべきか?

 

私の訪問者の一人の言葉が、また耳の中で響き始めた。ローレインが乳癌で手術を受けているときに、なぜ自分は今日も手術をしているのだろう?ひょっとしたら、ここにいるべきではないのかもしれない。他の誰もがそうするであろうように、その日は仕事を休むべきだったのかもしれない。良いニュースを祈りながら、待合室で待っていることになっていたかもしれない。しかし、そんなことは私はしなかったのだ。ほとんどのSuperperformerのように、自分の患者に対する仕事や手術のために一日も仕事を休んだことはない。前夜マシューが自分の家のプールで溺死しかけたときも、その日のスケジュール通り8人の患者の手術を行った。自分の父が心臓の手術を受けたときも、私はメイヨーのフェロー(専攻医)として隣の部屋で手術を行っていた。同様に、ロビーが生まれたときも、手術を休むことはなかった。端って手術室に向かい、時間通りに間に合ったのである。母親が心臓手術を受けたときも、私はアラバマ大学病院の指導医として手術を休むことはなかった。母親のまさに隣の手術室で、その日10例の手術を行ったのである。自分の肋骨を折った沖、自分の半月板を損傷した時、自分の唇を切ったとき、自分が風邪をひいたときも手術を休むことはなかったのである。

 ほとんどの外科医は毎日仕事場に現れる。なぜなら自分の患者に強い責任があるからだ。私も例外ではない。しかしひょっとしたら、競争に来るべきではないときもある。ひょっとしたら、その日自分がいないほうが、自分、自分のチーム、自分の患者はみなうまくやれるのだということを認識しなければならないときおある。

 superperformerとして、よく理解しておくべきことがある。それは、自分の限界を知り、引き時を認識するということだ。ひょっとすると、このことは私にとっては、通常のある日なのかもしれない。しかしそれは遅すぎた。私はすでに競技場にいて、試合の真っただ中だったのだ。

 良きにつけ悪きにつけ、私はこの伝統を自分の子供たちに教え込んできたし、そのことは2013年6月のロビーの姿によく表れている。

 

 もっと若かったころ、「勝ち目のないシナリオ」を受け入れることは全くできなかった。ただ無理であった。私は常に、勝つための新しい方法を考えだそうと努めなければならなかった。勝たなければならなかったのだ。しかし今回は自分の人生で最も重要な戦い、つまり妻の癌を直すという戦いであるが、それには敗北しつつあった。自分たちが何をしようとも、私が何をしようとも、世界中のドクターのどんな意見も、私が電話やインターネットで誰にコンタクトを取ろうとも、われわれは敗北しつつあったのである。

 ローレインと私は、医師や看護師に対して上品さとやさしさと持ちつつ、こういった出来事に対応したいと思っていたし、実際彼女はそうだったのである。

 子供たちと話をした時には、子供たちは母親に戦い続けるように言い、そうする母親を誇りに思っていた。「やめる」という言葉はわれわれの辞書にはなかったのであったが、ひょっとするとそうするべきだったのかもしれない。時には、自分が敗北しつつあることを知るのが良いし、そうすれば品性をもって敗北できるようになる。時には、相手チームに負けたとき、試合は終わり、微笑み、帽子を取り、握手をし、彼らを祝福しなければならない。

 そして試合中、常に自分自身に語り掛けることができる。来年まで待って勝利を収めよう、と。しかし敵が癌であるなら、来年はない。

 時には、自分が何をしようとも敗北を喫するであろう。われわれはみな、人生において敗北する。敗北するときでさえも、他人に対して親切にすることができるし、理解を示すことはできる。スポーツイベントなら、容易なことである。ビジネスの取引においてさえも、百万ドルの損失を出しても品位をもって敗北することは可能だ。そしてそうすることで次の取引では有利になる可能性がある。自分自身の敗北の仕方に、相手は良い印象を持ち、次の時には再検討してくれるであろう。

 敗北が決定的であるとき、まず最初に敗北が100%確定であることを確認するべきである。そして競争やプロセスの終盤でも敗北を受け入れられるようになるべきである。この5年において、アメリカバスケットボール協会(NBA)におけるこの変化を目の当たりにしてきた。今、勝者側のチームであれ敗者側のチームであれ、勝利や敗北が確実であるとわかったとき、試合時間最後の30秒から1分は、時間稼ぎのドリブルをする。彼らは試合は終わったことをわかっているのであるし、相手チームの勝利を品位をもって認めたいのである。

 勝利に対する反応を準備しておくのと同様に、敗北に対する反応も予め準備しておくべきである。このプロセスは、敗北というイベントが起こる前に、心の中で準備しておく必要がある。自分の敗北が確実であることを気づいた後の重要な対処法は、自分と一緒に敗北する人々のことを考えるということである。一人ひとりのチームメンバのことを思い、彼らにとって敗北が何を意味するのか考えるべきだ。ローレインの病気が進行するにつれて、彼女を愛して彼女の面倒を非常によく見てくれた看護師たちのことを思った。私は彼らに思いを馳せ、彼らの感情に思いを馳せたのである。自分の敗北の瞬間に一緒に敗北する人みなに感謝するべきだ。彼らの努力に感謝し、彼らの感情を考え、できるなら彼らを慰めるべきだ。

 

 

 

 

不調の時に備えておくトレーニング法とは?

 

自分の妻が手術を受けていたあの日、自分が手術をするべきではなかったのかもしれない。しかし実際は大手術にどっぷり浸かっていた。すでにそう決めていたのであり、一旦やると決めたからには、完全を期すべきである。手術や人生において、「何気ない」努力などありえないのだ。

 そしてゆっくりと私のトレーニングが生きるようになった。自分は大丈夫だ、ローレインは大丈夫だ、家族も大丈夫だと自分自身に言い聞かせた。我々はいつもここにいて、勝利への道を見つけてきた。ローレインの癌のあるリンパ節も含めて、家族として対応できないということは何もない。

 持針器を手にして、縫合を開始した。「自分はもっと強くならなければ」と大きな声で、ただし自分の手術マスクの中で自分だけに聞こえるように言った。私はしっかりと腹を括った。

 縫合は最初は綺麗ではなかった。つまり自分の縫合は少し震えていたし、遅く、しっかりとしていなかった。しかし最初の1針は悪くはなかった。次の1針は少し良くなって、そしてゆっくりと数秒後私の技術は戻り始めた。「私はできるのだ」と自分自身に呟いた。「私はRobert J Cerfolioで、世界中の誰よりもうまくできるのだ。」

 より重要であるのは、そのことは真実ではないとしても、それが真実であると全身全霊を持って信じていたことである。気分はあまり乗っていなかったかもしれないが、私はこの患者に勝利をもたらそうとしていた。私の患者は勝利に値するのである。私患者は、自分を手術する外科医が、自分の個人の人生は如何様のものであれその日自分の気分がどのようなものであれ、ある一定の結果をもたらす価値があるのだ。

 外科医はアスリートに似ている。自分の気分がすぐれない時、外部の要因が自分に反して動いている時でさえも、良い成績を出さなければならない。マイケルジョーダンは、1997年のチャンピオンシップシリーズの試合で40度以上の熱があったこともある。しかし、superperformerとしてジョーダンは38ポイントをあげ、ブルズは試合に勝ち、そのシリーズを物にして、次に駒を進めたのである。

 自分の調子が全く出ないという日は多い。最初の手術症例の前に手を洗いながら、その日の自分の調子が良いか悪いかわかるんだと、私にいう外科医もいた。彼の言いたいことは我々は皆分かっている。プロのピッチャーが、ブルペンのマウンドに上がってすぐに、その日は自分のベストの速球やスライダーが投げられないことがわかることも多い。しかし、プロのアスリートとして、superperformerとして、それでも質の高いスタートを切らなければならない。もっと重要なことには、今日はうまくいく、と自分自身に言い聞かせる必要がある。我々は自分の成績を決定する必要がある。

 我々は自分の調子がちょっと悪い日でも、高いレベルの成績を出す方法を見つけなければならない。superperformerとして、自分なりにまずまずの線をいく方法を見つけなければならない。自分の作り出すものが、自分のベストではないとしても、相手のベストを上回らなければならない。出血させずに腫瘍を切除しなければならない。逆境に立ち向かって戦ったり気分のすぐれない時に仕事をしたことがなければ、同じような日にプレッシャーのもとで力は出せないだろう。ひょっとすると、自分が経営者で、夜眠れていなかったり家庭で問題を抱えることもあるだろう。そんなことは関係ない。ただ仕事場に現れて、クオリティーの高い仕事を終えるだけである。

 体調が悪い日にトレーニングしておかなければ、調子の悪い日にプレッシャーがかかった状態で成績を出すことは不可能だ。私はいつも、「ちょっと」具合の悪い日にも練習に来るよう、アスリートたちに促している。体調が悪い時に練習する以外に、体調が悪い試合当日プレーする方法があるだろうか? 

 

 

 

妻にどのように伝えるべきか?

 

傷を閉じ終えるや否や、私は研修医に依頼して患者家族に説明してもらい、私はローレインに会うために回復室に走った。私はローレインがすっかり目覚めるまでに間に合った。彼女はまだ大変そうであったが、目を開けた時、私の顔を最初に見ることとなった(ひょっとすると、その日の後ほど術後の悪心に悩んだのかもしれない)。

 私はまだリンパ節のことを話したくはなかった。息子たちが病院に入り、家族として一緒にローレインに伝えることがベストだと思っていた。私は家に電話し、息子たちに、冷静にそして事実として、母のセンチネルリンパ節はがん細胞があったということを伝えた。後から振り返れば、電話での会話はベストではなかったが、残念ながらそういう行動を取ってしまった。息子たちには病院にすぐに車で向かい、みんなで伝えるように病室にくるように伝えた。

 息子たちは到着する前に、ロビーはすでにgoogleで検索してT1N1M0の乳がんの5年生存率を調べていた。5年生存率は87%であったことに私は舞い上がった。ローレインは病室まで連れてこられ、ベッドに移された。私はベッドに腰掛けて、今まで何千にも患者さんに術後にガンの告知をするのと同じやり方で妻の手をとった。今回は20年連れ添った妻だ。

 私がセンチネルリンパ節が陽性であったことを告げた時、息子たちは誇り高くしっかりと背を伸ばして私の後ろに立っていた。妻は泣き出した。「どうなるの?乳がんはたった9ミリだったのに」悲しみで涙が溢れた。涙の流し方は彼女らしいものだった。静かに、謙虚に、気取らず、しかしとても弱々しかった。「化学療法をしなければならないということ?どういうことになる?」もう一度泣き始めた。

 私はそれまで息子たちが悲しみから泣いているのを見たことはなかった。しかしその時、3人とも涙を浮かべていた。一番上のロビーは涙を隠すために顔を窓の方に向けた。アレックは静かに涙を流し、ローレインを抱きしめ、マシューはローレインの胸に頭を埋めた。ロビーは窓の外を眺め、外に自分の未来を見た。おそらく家族全体として、私がその日手術室で経験したことに対する気づきがあったのだろう。我々は完全な存在ではない。私たちは全てを一瞬で失うことがありうる。そして人生も、このように一瞬で変化する。

 私はもっと経験が浅かった頃、特に困難な手術や、VIPの手術を終えた後に自分の仕事の出来栄えに関して自分自身を祝福したものだ。もっと最近、この数年になり、私は自分のチームを皆の前で祝福するようになり、良い結果に関しては神様に感謝するようになった。大勝利の意味するものは次にやってくる困難であるということを、すぐに認識すればするほど、自分は謙虚になるだろう。外科医にとっては、次の困難というのは、次の患者が手術室に運び込まれる数分の問題となる。もし自分がアスリートで勝利したならば、次の試合が始まるまでの数ヶ月ということになるかもしれない。しかし間も無く次の試合はやってくる。いつ次の困難がくるかということは様々だが、次の困難はやってくることは確かだ。仕事をする上で強いプレッシャーを感じる次の時はやってくるのであり、その時自分の結果は前回ほど良いものではないかもしれない。

 だから、勝利を味わうことは良いが、手短に味わうのが良い。次の日は失敗するかもしれないことを認識しよう。外科医の場合は、次の数分後には失敗するかもしれない。1回勝利するごとにより強く、より賢く、より経験豊かになるのである。しかし一つ一つの勝利に関しては謙虚であるべきだ。

 このことはいつも容易というわけではない。報道陣の前で話したり、家族に対して「ガンは取り除いたから愛する人は大丈夫だ」という前に、一人でトイレに行き、鏡を見て、よろこびの雄叫びをあげ、自分自身を作って喜びをチェックするように私がアスリートや外科医に言ったことが何回かあるのだ。自我は、視野に入れておかなくてはならない。自分のチームと神に対して、自分の才能と困難に立ち向かう機会に関して、信頼するべきだ。自分が手術する能力を一瞬失うことにより、私はより謙虚により弱々しくなったが、同時により強くよく上手になった。その理由の一つとして、競争する機会は、ひょっとしたら一瞬で消えてしまうかもしれないが、何にも代えがたい最大の贈り物だということに気づいたからであろう。

 

 

ホームで仕事をすることの意味

 

私はローレーンの乳房切除の夜を、病室で彼女と過ごし、隣で眠った。息子たちは自分達だけで家にいた。ローレインと自分は朝早く起床して朝食を一緒に食べた。私は当直室でさっとシャワーを浴び、前日に飛行機で乗り入れた4人の新しい見学者に講義をおこなった。私の手術が始まる前の6時50分には、私は彼女の元に戻ったがその時には、彼女の二人の親友のジャンとナネッテがすでに病室にいた。彼女たちは交代交代で、彼女を一人にならないようにしていたのである。

 私は1日中調子は良く、10例の手術を行った。昨日の問題は何も引きずっていないように思えた。自分の手術が終わってから短い時間であったがローレインに面会した。面会中、午後にはシカゴ行きの飛行機に乗らなければならないことをもう一度伝えた。というのは9時にはレストランで講義をする予定で、そして翌朝の6時30分にはシカゴ病院の大きな講義をする予定であり、そして家に帰ってくる。それはいつもの24時間以内の出張であった。ローレインの手術の後次の日に私が出張することは嬉しくはないようであった。しかしそれらの講義は9ヶ月前以上前に予定されていたものであり、多くの人々、ドクター、看護師は楽しみにしていたものであったからキャンセルはしたくなかった。彼らに対する責任があったし、ローレインは経過の良い回復をしていたことをわかっていた。私は、気づかぬうちに戻ってきていると伝えた。

 次の18時間、ローレインの友人たちは時間をスケジュールして、必ずローレインと一緒にいるようにして、そして彼女たちはローレインと病室で眠った。これはアメリカ南部では共通する習慣であった。ローレインの友人は、知りうる限りの最高の友人を持ち、ローレインも彼女たちにとって最高の友人であったのだ。

 私の講義は首尾よく終わり、シカゴからバーミンガムに飛行機で戻り、手術室に走った。その日々午後には3例しか手術はなく、その日と翌日も手術はうまくいった。信じられないくらい平穏であった。自分がいつもの手術チームと一緒にいる方が、外のチームよりも、うまく手術できるし平穏にできるということに気づいた。病院でローレインの横で眠ることにより、患者視点での経験をすることができた。医師、看護師、病院のシステムに対して患者の持つ弱みを私は理解した。食事、水、衣服といった全てのことにおいて、我々を必要としているのだ。生活に関して我々に完全に依存している。ある程度はわかっていたことであるが、今回以前には、実感するレベルで理解していたわけではなかった。

 一日の仕事が終わるや否や、ローレインの病室に駆け戻った。「ただいま。24時間以内に君の元に戻ったよ」とうとう家に戻ったのである。

 多くのスポーツにおいて、ホームで戦うことがそこまで重要な理由はなんだろうか。自分のチームが敵に勝つための応援団を持つ意味はなんだろうか。単にコートに慣れていたり、自分のベッドで眠ることであったり、あるいはもっと重要なことがあるのだろうか。友人や家族、そして自分をサポートしてくれるものを身近に持つことが、それほど重要なことなのだろうか。そしてこのメリットは、アスリートが数年かけて精神的に強くなる過程においても、変わらぬものなのであろうか。

 

 

 

手術中の緊張をほぐす方法!

 

数か月前、非常にあがり症の研修医と手術をしていた。彼女の手は震え、縫うことができなかった。彼女は腹部の手術に慣れていたが、胸部の中で心臓と肺の手術をすることは全く別のことだ。腹部の手術に慣れた多くの外科医にとって、体のある部位から別の部位にうつるのは、やかましく馴染みのない球場の道でプレーするようなことになり得る。この研修医にとっても同様であった。手は大きく震え、極端に緊張していた。彼女の手は器用であり、この手術のある部分を行う技能はあることをわかっていたが、彼女の心がそれを阻んでいた。

 数か月前に第1子を生んだばかりであった。私は少しの間優しく彼女の手を握り、彼女に言った。後ほど夜にベッドに横になって、新しく生まれた赤ちゃんが自分のお腹の上で眠っているところを想像しなさい。

 「赤ちゃんのかわいい寝顔と、腕の中で眠りにつく無邪気で穏やかなところを想像しなさい」と勧めた。赤ちゃんとご主人が、どんな自分でも愛してくれる。今自分が何をしてようとも。どのように肺を縫合しようとも。どれくらい手が震えていようとも。問題はない。自分の仕事が丁度今うまくいっていようともいまいと重要ではないのだ。

 彼女は再度集中し、少し良くなった。完全ではないが、良くなった。

 同様に私は言い続けた。彼女は少しずつ震えるのが少なくなり、私の期待通りの出来となった。「そして手術は終わりに近づいた。この患者さんの経過は良いだろうし、もう少ししたら家に帰れるし、完全にリラックスできる。家族は愛してくれるだろうが、自分自身は今日の出来をわかっているし、その思いを持っている。自分自身だけが、今日の手術の出来を認められるかどうかわかっている。今日の手術において自分自身に設定した期待値を上回っているかどうか、本当にわかっている。だから、今楽しんで、私とあなたが今できると分かっていることに対する期待に応えよう。」

 殆どの人と同様、私は仕事がうまくいき、自分のチームメンバーを大切にした時が最高に幸せだ。大変な手術を終え、手術室のチームメイトや研修医に対して優しく忍耐強く接することができたとき(残念ながら今だ非常にまれであるが)、そして患者家族と術後に満たされた時間を過ごしたとき、最高に満たされた感覚になる。

 そんな日の夜、私は自分の車に向かって通りを横切っていた。午後8時半で、とうとう家路についていたのだ。年老いた女性が道に迷い、病院までの道を探していた。私は時間をかけて、彼女を病院の入り口まで連れて行ったのである。とうとう家に帰ってきたとき、手術室で長い時間を過ごし、夜遅く家に帰ってきてすごく気分がよさそうだと、妻は言ったのである。

 自分にプレッシャーのかかったとき、人とつながっていることが大切だ。良いスポーツの例がテニスである。世界の最高の選手たちは、特に決勝戦において心のサポートを求めるとき、家族やコーチの席を見つめる。さらに、他の人間とつながっていられるなら、自分の直接知らない人でさえも、安らぎや幸せを与えてくれる。二度と会わないような見知らぬ人と私が人間関係を作るのは、このことを強く示す例だ。その日私が手術したということは、その老女には完全に無関係だ。私が入り口まで連れて行ったことが彼女にとって喜びであった。

 しかし家族が最高のものであるのは、たいていの場合家族は、自分が何をしようとも愛してくれる人生における数少ない人々だからである。天国のことを、自分が何としようとも何を言おうとも、自分が何も間違いを犯さず、無条件に愛される場所だという人もいる。自分がキツイ状況にある時、実力が発揮できないときに、このような人々やその場所を想像するのが良い。微笑む配偶者、母、父、大切なパートナーや子供を頭に浮かべることができる。私は、非常に大人しくて人懐っこいゴールデンレトリバーのSugarを頭に浮かべることもある。その無条件の愛を自分の体に浸透させ、ある夜座ったりベッドに横になったり休んでいるときにその愛を感じる能力を養おう。その方法に一旦馴染み始めれば、プレッシャーのかかった時にも同じことをするよう試みよう。あなたに向けられた無条件の愛を、自分の中にかけ巡らせ、自分が失敗し行き詰まり大失敗したとしても、彼らはそこで無条件に愛してくれる。

 私が朝、病室の折りたたみベッドで目覚めた時、ローレインは私がどれほどひどい顔をしているか、私が前夜誰を手術したかは気にしなかった。私にそこにいて欲しかっただけだった。

 

 

 

負け方の美学

 

Batman Beginsの映画の中でバトラーのアルフレッドは、マイケルケインによる素晴らしい演技であったが、「ブルース様、なぜわれわれは転ぶのだ?」と問いかける。それはわれわれは立ち上がる方法を学ぶことができるようにだ。」という。時にわれわれは自分の間違いから一番よく学ぶ。時には、何らかの理由で転倒した後にのみ最も良く学ぶ。これはある映画からの引用であるが、もう一つ引用がある。1970年にジョージCスコットはPattonの役を演じてオスカー賞を獲った。映画の中で彼はいうのには、「アメリカ人は勝利者が好きで敗北者にはそっぽを向く。」長きにわたって、この言葉は私にとって、マイケルケインの言葉よりもずっと多くの意味があった。

 私はいつも負けるのが上手ではなかった。子供のころ、競争に負けたり目標を達成できなかったときは、自分の頭の中でその敗北を何度も何度も反芻した。一瞬一瞬を思い出し、勝つためには別のやり方がなかったかということを自問した。恥ずかしいことであるが、大人になってからも7歳児のコーチとして小学2年生のカソリックのバスケットボールの試合で負けた後も、私は進歩していなかった。

 手術室にて癌に負けるということは、またもう一つの納得できない敗北だ。私が指導医として予定手術に入って、患者さんの奥さんに肺がんは広がっていて横隔膜に転移があったということを伝えなければならなかった最初の時を覚えている。つまりそのがんは治癒することはなく肺を切除することで何の助けにもならないということだ。私たちが勝つためにできることは何もなかった。したがって私たちは胸を閉じ家族にはなすために手術室を出た。奥さんはうつむいて泣き始めた。娘さんはその悪い知らせをしているときに母親を抱きしめた。

 そして、その娘さんの可愛い小さな6歳の女の子はポニーテールをしていて、その患者さんの一番上のお孫さんだった。私の手術着を掴んで言った。「いいのよ、先生。私たちはがっかりしていないよ。先生は出来るだけのことをしてくれたんだもの」

 われわれは負けたのだ。彼女の祖父は、癌で死ぬことになるだろうし、それに対してできることは何もない。なのに、信じられないことだが、6歳の孫娘さんは、私と慰めていた。その患者さんの経験の最終結果は、私の経験もある。まだ今でも私の頭から離れることはない。私の仕事人生の中で最悪の日であったし今でもそれは変わらない。

 以前に胸部に放射線治療が施された患者さんの、リスクの高いロボット肺葉切除をしていたときのことである。私は肺動脈から出血させた。最初は修復が容易に見えたが、出血は通常よりも多く、解決するために開胸することと決めた。

 しかし、開胸すると心臓の右側の圧が高く、それは術前にはわかっていなかったものであった。出血を修復しているあいだに、心臓の左側も弱ってしまった。われわれは手術を終えたが、患者さんは後に亡くなった。奥さんと素敵な家族にそのことを説明するのは最悪であった。彼らの痛みは喪失は想像だにできない。



 

プロも自分の指導者を持て!

 

それもまた、敗北であり、わたしはじっと考えた。次の日に自分が手術できるかどうかさえ分からなかった。もしそれが私の息子やコーチしていたチームの選手であれば、私の経験からの言葉をかけることもできだであろう。しかし、殆どの外科医と同様に、私にはコーチがいなかった。

 ほとんどのプロフェッショナルはにはコーチがいないというのは興味深いことである。実際のところ、プロのアスリート以上のことをしている外科医はごく少数でしかない。なぜだろう?弁護士、医師、会社の最高責任者、会社役員にはコーチがいないのはなぜだろう?自分の分野で成功した指導者たちに、コーチがいなかったのはなぜだろう。そうだ、私たち医師も講習会に出向き、学び直しのクラスに出席し、自分の分野の雑誌を読み、数年ごとに専門医の更新をしなくてはならない。ただ、普段の仕事の効果を最大限まで高めるようなコーチを持っているのは、私たちの中でも少数である。プロのアスリートの多くが、ボールや物を投げたり受けたりしているのに対して、私たちが人間の手術を行っているという事実を鑑みると、そう考えてもあまり意味はない

 コーチを雇うことはあまり現実的なことではないため、自分が自分のコーチになることを学ばなければならない。もし他の人間と会社を経営していたり仕事をしていたりするなら、自分の周囲の人間に、無記名のやり方で自分を厳しく評価してもらうことだ。無記名でない限りは、正直な評価は決してもらえないだろう。したがって、自分の周囲の人間全員か評価をもらうべきであり、自分より上の立場の人間、下の立場の人間、そして同様の立場の人間に評価をしてもらおう。それが自分の成績を評価する客観的な指標だと考えるべきだ。

 自分のコーチをするもう一つの方法は、自分の分野における他の専門家を求め、彼らが自分の仕事をどのように行っているのか、そして自分の仕事をどのように評価しているのかを尋ねることだ。この戦略は、意外な点で役立つことがある。最近のことであるが、自分たちの子供たちがいつもの馬鹿な言い争いをしているのをやめさせ、罰を与えなければならないと分かった後、子供たちに尋ねてみた。「もし自分が父親の私であるとしたら、子供にどのような罰を与えるべきだろう?」と。彼らの返答により、子供たちの考え方や、どのように教育してもらいたいかということがよくわかったのである。

 その質問をした後に私が子供たちと培った関係は、効果があったに違いない。というのは、自分の患者が亡くなって次の日手術をする地震がなかった夜、ありがたいことに16歳の息子が2階に上がってきて私のコーチになってくれた。私が彼に数年間言い続けたことを、そのまま私に伝えたのだ。

 「父さんしっかりしてよ」と彼が言った。「今日は最悪だったんだろう。だからどうしたの?今まで信じられないくらいうまくいっていたじゃないか。しっかりして仕事場に戻り仕事をしてよ。一人で落ち込むことはやめてよ」

 当初わたしはびっくりした。自分の言った言葉が自分に返ってきたからだ。ローレインはアレックをたしなめた。しかし彼は正しかったのであり、それは深い洞察であった。私は成功体験からよりも失敗体験からずっと多くのことを学んだのである。

 自分を批評的にみつめることはしばしば困難だ。コーチを持つことのメリットは、自分を客観的に見てもらえることであり、自分とは違う角度で自分を見てもらえることである。助言は非人格化される。自分自身を録画することのメリットは、前の章で詳細に述べたが、他人が自分を見るように自分をみることができるということだ。自分が講演したり手術したりしているところ最初に見た時の人々の反応は、衝撃的だ。自分たちがどのように見えているか、話がどのように聞こえているかをみて信じることができない。忠実で自己批判的な分析は困難であるから、自分のコーチにお願いして、自分のために「自我」を変えよう。

 何か失敗の後は、自分に対してコーチのように振る舞おう。自分の失敗を分析し、その失敗から学んだことを書き出そう。よりよい結果を出すために、次回何を改善できるかを自問しよう。すべての失敗は、改善する良い機会である。すべての失敗は、実際神の祝福であるし、失敗したときにはそう思い難いものであるが、失敗をそのようにみなすのが早ければ早いほど、失敗が成功に変わるのが早くなる。

 結果が悪かったときは、家族や友人たちの無条件の愛と支えを受け入れてはいけない。彼らは他にできることは何もなかった、とあまりに容易に口にする。アレックが私に対して行動したように振る舞おう。自分の生活の中で失敗や悪い結果について、家族と話し合うとき、他にできることは何もなかったと結論づけることが多すぎるのである。その理由は、他にできることは何もなかったという結論を支持するため、自分のストーリーをちょっと曲げてしまうからである。ところが実際は、ほとんど常に、何か違うことは出来たといったところである。それで結果は変わらないかもしれないが、認識しておくことは重要であるし、その考えを検討して一つ一つの決定事項の細部すべてを検討することも依然大切だ。自分の決定は間違ってはいなかった、とあまりに安易に思い込むことはやめておく方がよい。その悪い結果、自分自身の行動、自分のチームの行動に対する責任を受け入れ、プロセスを改善するために仕事をすることである。

 重要な要素は、自分のチームの行動の責任を受け入れる部分である。現在、私の息子のロビーは、大学の1年生でアイビーリーグのERAが0.63であったが、勝敗は1-4であった。彼の試合の多くはインターネットで見たし、球場に足を運んだことも数回あった。確かに、彼のバックでのエラーが多かった。しかし、私が彼に学んでほしかったのは、そういったエラーを嘆くことではなく、自分が投げている試合で自分のバックのプレーがうまくなるためにはどうしたらよいか、ということであった。

 私はこれを自分の仕事場でも実践している。手術室で、自分たちが自動縫合器を血管の周りに持ってきて操作をしているとき、私の解除をしている看護師の数名が不安になっていることに気付いた。この操作は、ロボット肺葉切除の中でもっとも不安を書き立てるパートである。それゆえ私たちはトレーニングセッションを設けて、わかりやすいコミュニケーションシステムを作り上げた。つまり、私は私で手術ベッドでのアシスタントに、自動縫合器をもってくる最適の方法を伝え、アシスタントはアシスタントで私に、自分たちが経験していることを伝える。このことにより、私たちはチームとしての力が急激に上がり、めいめいが急速に上達したのである。

 自分の周囲の人間や自分のチームを改善するために、彼らにアプローチする新しい斬新な方法を見つけよう。真のMVPは自分の周囲の人間を改善するのである。Entertainment and Sports Programming Network(スポーツ専門チャンネル)からの言葉だけではなく、真実である。

 

 

 

日はまた沈む

 

自分の心掛け次第ではエラーの連鎖を防ぐことができる、と私ははっきり分かっていたが、それでも、自分がコントロール出来ないような幾つかの無関係なイベントが、悪い方向に向かっているような日もある。どんな日であっても、単にアンラッキーだったという時がある。大抵の場合、仕事場、家庭、学校、あるいは手術室での自分の成績をじっくり見ないとこの事実には気づかない。この時点では、1日を乗り切る為の精神的タフさが求められる。

 そのような日には私は研修医に対してこのように言うことにしている。「さあ、今出血のの多い腫瘍に苦労しているところに、上の回の患者で緊急の相談があった。そして1時間後には食道穿孔の患者が救急外来にやってくる。先ほど妻は、自分の車が結構な修理が必要だと言った。しかしいいニュースがある。時計は止まらない。どこかの時点で、この日も終わるのだ。

 時計は止まらないという事実は、常に良いニュースであるわけではないのは明らかだ。しかし、本当にアンラッキーな日には、慰めの事実だ。今夜十分に眠れないかもしれないし、あるいは眠りにつくことすらできないかもしれないが、煙は晴れ、太陽はのぼり、最終的には1日の仕事が終わる。そして明日は、ほぼ間違いなく今日よりは良い日になる。

 こんな日には、こんな楽観的な姿勢が大切だ。悲観的になる人が多すぎる。ほとんが、不運を予想し、不運を被り、その態度によりもっと不運を引き寄せる。

「知らなかったの?まさに自分の運命だ!」と。その態度は、「つきぬける人たち」煮物ではない。我々には、十分の運があるし、自分たちの運命が進んでいけるように懸命となるのである。物事が自分に敵対しているような時でも、自分たちが備えていれば、「不運」は続かず、短命であるはずだということを分かっている。

 以前何回も言ったように、そう言った「不運」に思える出来事が本当に自分のコントロール出来ないものなのかを確認するためには、批評的に見つめるべきである。やりすぎくらいに批評的に見つめ、それらを防ぐために何かできないかどうかを考えるべきだ。しかし一度、自分のコントロール外であることが完璧に確信したら、どこかの時点で、自分たちは皆不運であると認識すると良い。真に突き抜ける人は、努力を続け、細かい点に継続して備え、やがて自分の運勢が変わることを知っている。「幸運」をもたらすような仕事をやり続けるがゆえに、運勢が変わるのだ。

 しかし時には、こんな日や不運の連続も終わる、ということを自分たちで確認することも良い。映画Cast Awayは私の好きな映画である。理由は無人島で何年も暮らす男のメンタルの強さを描いているからだ。彼は、自分のすべきことは分かっているという。

「それは息をし続けること。太陽は昇る。潮が洗い流してくれる。」と言う。日々はよくなるのだと思いながら、誇りを持って1日を終えることに集中することだ。

 

 

 

 

ジョン(仮名)とサラ(仮名)〜2つの決断〜

 

肺癌の手術を行う時、2つ目のレベルのリンパ節(N2リンパ節)にガンが見つかったとき、癌そのもの(原発巣)を取り除くメリットは、議論の分かれるところだ。時には、癌のある肺を切除するように手術を進めることがベストである。しかし、時には手術をやめて癌を肺の中に残し、放射線治療と抗がん剤治療で治療するのがベストである場合もある。その術中判断を行うことについては、私は専門家だと思われているし、どのようなN2の病態を管理するのかということについては多くの講演を行なってきた。

 しかし時には、多くの経験と専門的知識にも関わらず、患者家族の観点からは間違ったことをしてしまうこともある。サラは67歳の肺癌の患者さんで、私は開胸し、2つ目のレベルのリンパ節を迅速診断に出して癌細胞が含まれていることを病理から聞いたばかりであった。そして決断する時となった。我々とサラの家族は、術前、このような状況に備えて、十分話し合っていた。彼女には男前のご主人がいて、双子のブロンドの孫娘がいた。私は手術をやめ、癌を残し、化学療法放射線療法を行うこともできた。あるいは、手術を進めて肺癌を切除し、出血・呼吸苦・その他の多くの合併症を覚悟するということもできた。メリットは不明であるのであるが。そして私は手術を中止することを選んだ。

 次の2、3週間でサラは化学療法に起因する多くの合併症で亡くなったのである。夫は私に電話をかけてきた。怒っていたのである。

 「なぜあの時手術を中止したのですか?Cerfolio先生。なぜあなたは妻の肺癌を残し、死なせてしまったのですか。あなたは世界中で最高の外科医と思ったから受診した。肺癌手術のマイケルジョーダンでしょう。なのになぜ妻のがんを残してきたのでしょうか?」電話口で泣いていた。妻はちょうど昨夜亡くなった。「私は寂しいのだ。もし先生が癌を切除していれば妻はここで今日、私の隣に座っていることだろう。この2ヶ月は今までで最悪の時間でした。化学療法により妻は本当に具合が悪くなった。妻を殺してしまったのだ。ガンが殺したのではない。」

 彼のいうことは正しいだろうか?

 彼の心の痛みを慰めるために、そして自分自身に自分があのような決断を下した理由を説明するために、私はサラの夫にジョンという名前の患者さんの話をしたのである。

 ちょうど4ヶ月前、私は同様の決断を迫られる状況にあった。肺癌の切除を行っている時にN2リンパ節に癌の転移を見つけたのである。ジョンはサラよりずっと若く、家族も若かった。可愛いブロンドの娘がいたが孫はいなかった。私は、サラの家族に対してい話したのと同様にジョンの家族にも術前に同じような話をした。ジョンは私が積極的に切除を考慮することを求めた。「だから我々はカリフォルニアから飛行機できたのですよ、先生。先生に手術してもらうために。」ジョンは言った。「先生が世界一で、そしてアグレッシブだと聞いてきたのです。」

 だからその日は手術を中止しなかった。ジョンは若く、呼吸機能は素晴らしかったため、その手術に十分耐えられると判断した。私は、その非常に大きなそして奥の方の腫瘍を切除しようと試みた。しかし、その腫瘍を剥がす途中で、肺動脈からの出血に至った。心臓の右側の血圧は高く、出血を修復して癌を全て取り除くためには、人工心肺を使うしかなく、その道を選んだ。我々は肺動脈を縫合し、癌を全て切除した。しかし、彼の心臓の右側は力を失い、ジョンは人工心肺に依存する形となった。そして彼は亡くなったのである。私の心は荒れ果て、私は手術室でて、妻と家族に伝えなければならなかった。

 ジョンの娘さんのことは今でも覚えている。お父さんは向こうの世界に行ってしまったのだよ私が家族に伝えた時、「どうなったの、ママ?何が起こったの?パパは大丈夫?」と尋ねた。

 そして母親は「パパは家にはもう戻ってこないのよ」と言わざるをえなかったのだ。

  彼女たちの思いを想像してみるといい。彼らは我々の、もっというと私の元にきた。我々のチームが世界一と思ったが故に。私は手術を完遂し、完璧な結果をもたらすはずであった。ちょうどその結果を出す、もしくはそう努めることに誇りを持っていたのである。

 ジョンの手術を終えるや否や、私は家族に経過を伝え、手術室に戻りローレインに電話をした。私は言った。「終わりだ。手術をするという仕事は終わりにする。もうこれ以上、やりたくないんだ。」

 しかし、私が帰宅する前に、その日は2つ手術をしなくてはならず、明日は9の手術があった。一人の患者はすでに麻酔で眠っており、私が手術を始めるのを待っていた。私は、自分と自分のチームを頼りにしている患者に対して職務があり、遂行すべきであった。そして結局のところ、私はやめなかった。今まで歩んできた道を離れる心づもりを手術室でした瞬間は、長きに渡り手を離したくないものであった。私にとってはこの本を書く動機となった。

 振り返れるならば、ジョンの手術は中止し、サラの手術は中止せずに進めばよかったということになるのだろうか。私は両方の判断を間違ったのかあるいは正しかったのか?これは、外科医が毎日直面する疑問である。私たちはこう言った決断の結果を踏まえて生きていかなかればならない。そしてもっと重要なのは、患者やその家族も私たち外科医と同じだということだ。我々は文献やデータにもどずいた医療を行うが、一人ひとりの患者は異なるのであって、1日の終わりには正しい決断を下すために自分の経験に頼っている。そして子供たちは、「突き抜ける」ために、我々が歩まなければならなかったような、回り道を経験しなくて済むのである。

 

 

 

 

ローレインと祈り

 

2013年2月半ばの、穏やかなわずかの期間があったが、ローレインの予後は、毎週悪化して行った。我々がロビーに会いに行った旅行から戻ってすぐにローレインは再入院した。脱水で病状が悪く、医師からは治癒の可能性はせいぜい5−10%だと言われた。また、次の化学療法はさらにきついものだとも言われた。体力的にキツく、病状も悪くなるだろうということだった。そしてさらに警告されたのは、おそらく効かないだろうということであった。もう一つのオプションは、家に帰り家族と穏やかに死を迎えるというものであった。

 ローレインは、「先生、私は子供たちの結婚式でダンスをしたいし、大学を卒業するのを見たいし、大きくなるのを見たい。あたらしい化学療法をやってみる」と言った。

 ドクターが去ってから、私たちはお互いを抱きしめ、一緒に泣いて祈った。しかし彼女は戦い続けたのである。

 この大変な数ヶ月、私は手術をし、教育をし、講演を続けたのである。私は彼女を支え、そばにいる義務があったが、それでも職務もあったのである。ブラジルとスペインへの客員教授としての出張はキャンセルした。ローレインは、その両方の出張で私と来ることになっており、一緒の時間が過ごせることに大喜びしていた。今や彼女はいけなくなっていた。

 私は1日も仕事を休まなかった。毎日手術して患者から癌を取り除いた。手術の直前に手洗いをしている時、ローレインのことを思い浮かべた。この苦難を通じてローレインの気高さ、勇気、誇りを思い浮かべていた。彼女は看護師やドクターに愚痴を言うことは決してなかった。彼ら彼女らはローレインのことが大好きでったし、それは今までの誰もがそうであった。私のチームが手術室で遭遇し、いつもどうしようもないように思え挫折を感じた問題は、今や、4階ちょうど上にいるローレインが経験していることと比較すると些細なことであった。

 彼女の心の持ち様や強さで、私も強くなることができた。私は少し優しくなって、患者さんと、特にその家族が経験することを、より理解できるようになった。家族として病院に眠り、病院で食事をし、シャワーや髭剃りをするということの意味をより理解できるようになった。毎日歩き回り、妻の生活を考え、妻のいない生活がどのようなものかを考えることがどんなものかを、より理解できるようになった。

 ある日肺葉切除をしていて、研修医が、心臓周囲で肺静脈を周囲の組織から剥離をするのに苦労していた。そんな簡単ばことに苦しんでいることに腹を立てて彼をこき下ろす代わりに、病気に直面しながらの彼女の優しい笑顔と、看護師に対する信じられないほどの優しさを思い出した。そして、私はより我慢強く、理解のある人間となった。つまり、その研修医や他のメンバーに対して、より優しくなったのだ。

 ローレインの病気は、他の点でも私を変えた。南部では、多くの家族は患者が手術室に行く前に、患者と一緒に祈りを捧げる。以前は、手術が滞るためこの祈りを急がせるように看護師に言っていた。今や、患者が手術室に運ばれる前に、患者と家族と一緒に待機エリアで祈りを捧げることが多くなったのである。

 より高い存在に対して祈りを捧げるという技法や概念は、長い間存在していた。知る限り、人類が地球上に存在するようになってから以来ずっとである。

 祈りは、教会や宗教さえも必要としない。不可知論者であったとしても、祈るという単純な行動により、自分の精神は安らかになるし、自分自身の気持ちが楽になる。ある意味、ヨガは祈りの一つの形態である。どんな手段を選ぼうとも、自分は一人ではないという思い、そして自分のコントロールできないことが起こり得るという思いは、最も大変な状況においてすら自分を安らかにする。世界中のアスリートの圧倒的多数は、この信念を共有している。

 私とローレインにとって、信念と祈りは自分たちの中心をなすものであり、私たちの根幹をなすものであり、自分たちの存在証明である。神はあなたと共にいるのであり、あなたは決して一人ではない。 

 

 

 

入院中の妻と仕事の私と

 

ローレインは医者に対して、激しい口調で迫ったり治療について不満や疑問を抱くことは一度もなかった。神に対して腹を立てることもなかった。ある日研修医が入ってきて、ローレインが受けているすべての治療にかかわらず様態が悪いということに関して、目に見えて戸惑っていた。ローレインといえば、病室のベッドで信じられないくらい具合が悪い患者であるのに、実際はその研修医を慰めていた。

 「いいのよ、先生。あなたはベストを尽くしたのだから落ち込まないで。次の化学療法で良くなるだろうし、4月には骨髄移植をするの。先生のために頑張るから」と言った。

 しかし彼女の急性骨髄性白血病は広がり続け、しかも激しかった。彼女の体温は上がり続け、白血球はゼロのままであった。

 世界は回り続けて、息子たちと私は「突き抜ける人」として、大切にするべき職務があった。その職務を大切にした。こんな状況にもかかわらず私は毎日手術をし、毎晩彼女と夕食を食べ、彼女の隣で眠った。

 夕食の後、時に院内を散歩した。手術と手術の間に私が行くところを彼女に案内した。自分がシャワーを浴びていた当直室を案内した。ローレインは、私が患者の何人か診察に訪れるのも同行した。私の患者たちは、ローレインが廊下で自分の点滴棒をひきづって歩くのを見て喜んでくれた。「奥様どこか悪いのですか。すごく美しいしとても病気には見えないわ。もうすぐ退院するのかしら」と皆が尋ねた。

 ローレインは、その大変な痛みや病気の深刻さを全て子供たちに話すことはなかった。彼女は、子供たちに、学校の勉強や野球の試合、他のことに集中していて欲しかった、と言っていた。ちょうど、彼女だけのモナ・リザの静かな笑い方でただただ笑顔をしていて、何も言わなかった。子供たちとは毎晩Facetimeをしていたが、彼女の顔色があまり良くない時、電話のみする夜もあった。子供たちが宿題をするのを確認するためにFacetimeをしていたのである。ローレインの友人たちはとてもやさしく、多くの夜は子供たちのために食事を運んでくれ、時には病院にいる私たちにも食事を持ってきてくれた。親友たちは、毎日毎日、毎週彼女のそばに居てくれた。

 3月は丸々、ローレインは入院していて高容量の化学療法を受けていた。化学療法がもっと必要であったため、骨髄移植は何度も何度も延期となって、今回は4月22日まで延期された。化学療法は追加され、検査も追加され、毎日もっと悪いニュースが追加された。私の命である妻のローレインは、夫婦としての癌との戦いに負けつつあった。ローレインは生存できないかもしれないとわかっていたが、彼女は口にしたくなかったのである。あきらめきれなかったのだ。

 毎日ローレインは希望と笑顔をもって目覚め、昼も夜も彼女はロザリーをもって祈っていた。私は夜ベッドに横になり、なぜこんなことがおこったのか神に尋ね、ローレインになぜおこったのかを神に尋ねた。しかしローレインの信仰心は、絶えることはなく確固としていた。

 

 

 

信仰と天使

 

 彼女は自分の私の可能性について話したくはなさそうであった。先ほどの会話によって、不安を与えたようであった。彼女は信仰心が厚かったが、死のことについてははっきりと話したくはなかったし、私たちは決してそうしなかった。ローレインの母親は90歳で父親は89歳であった。両親ともに健康上の問題を抱えていたが、ローレインの姉のカレン、弟のクリスとその妻ロビン、息子のチャールズと一緒にやってきた。金曜日の夜に到着し、一時間彼女と一緒だったが双方ともに疲れていた。ローレインは、モルヒネを持続的に体内に注入するポンプに繋がっていたため、痛みは少なくなっていた。とはいえ病気の合併症がますます増えつつあったのであるが。マシューはいつも通り金曜日の夜に来ることになっていたが、痛みに苦し無自分の姿を見せたくなかったため、来ないように言われてきた。彼女は自分の症状が実際に非常に悪いことを子供たちに伝えたくなかったため、親として我々は決して伝えなかった。

 私は金曜日の夜をローレインと過ごした。二人とも金曜日の夜が大好きであった。最初のデートは1988年9月の金曜日の夜であった。私はコネチカットのハートフォードで夕食に誘った。その時初めてキスをし、その魔法は今も残っているようであった。

 ローレインはよく眠れたようであった。ローレインの友人のシェリは彼女の部屋で眠り、私は廊下を下った当直室で眠った。次の日、2013年4月13日の土曜日の早朝に目覚めた。我々が結婚したのも土曜日で、1990年11月10日であった。私は素早く自分の患者たちを見て周り、走って戻り彼女を朝食をとった。彼女の顔色はよく、気分もよくなっていて、痛みは少なくなっていた。

 食事中、ローレインはシェリが昨夜見たものに耳を傾けるように私に言った。シェリがいうには、真夜中に看護師がローレインの様子を見にきている気がして目覚めたらしい。目を凝らすと、ローレインの上に、大きな男性の像が見えた。看護師はいなかったが、天使のようにな影があり、羽が少し開いていた。ローレインは眠っていたが、シェリの動きに反応して少し体を動かし、振り返ると天使は消えた。「すごく美しかったの。彼女を守護する天使で、守るためにやってきたのだわ」と言った。シェリは、私が科学者だとわかっていたが、信仰心が厚いということもわかっていた。この話や思いはにより、私たちは温かみと安らぎを得たし、ローレインは安心した。シェリが話している時ローレインは微笑み、私も微笑んだ。私には天使は決して見えないとわかっていたが、天使が自分の妻のところに来て見守っていたことは嬉しかった。