コロナ禍で突き抜けるための胸部外科医Cerfolio的生き方

私がDr. Cerfolioを知ったのは、アメリカに臨床留学していた2011年だった。ディズニーランドに併設されているかのような学会場で、日本の学会ではお目にかかることのないオーラと勢いを兼ね備えた外科医がいた。日本ではどちらかといえば、おとなしめが多い呼吸器外科医であるが、北米では「攻める」胸部外科医が主流だ。北米の胸部外科医は、一般(腹部)外科のトレーニングを終了することが必要で、さらに日本人よりも精神的にも肉体的にも厳しい胸部外科トレーニングを終えていることはまぎれもない事実だ。

 昨今全体として、「働かない働き方改革」を進められているが、その考え方に一石を投じる著作である。アメリカ第一主義ではないが、精神論第一主義がこの本の根底にある考え方だ。

 また、この本の中には精神論ばかりではなく、具体的な心と体のトレーニング法が満載である。2020年の1年間をかけて私はこの本を読んだが、その内容を少しずつ紹介する。

 

いつもの日であり、いつもの日ではなかったあの日

 

序章は次のように始まる。

 

2010年6月のとある水曜日は、外科医としての私にとってはいつもの日だった。何人かの見学者が私の手術を勉強しに来ていたし、その日は8件の手術をすることになっていた。4つの手術室を同時に使いながら多くの手術を並行して進めていく、それはこの10年間変わらぬ私のやり方だ。

 その日、私にとっての何時もではなかったのは、20年間連れ添った妻のローレインが丁度2階上の手術室にいたということだ。妻はメスを入れられる側になってしまったのだ。

 数日前、妻は乳癌と診断され、乳房の切除と脇のリンパ節の生検を受けることとなった。脇のリンパ節のうちの1つはセンチネルリンパ節と呼ばれるもので、通常乳癌が転移する最初のリンパ節である。そのセンチネルリンパ節に癌がいるかどうかを調べることで、癌が全身に広がりつつあるかどうかを医師は知る。

 ローレインの場合、その可能性は低かった。というのも腫瘍はまだ非常に小さかったからだ。しかし、彼女の運命はそのリンパ節の検査にかかっているというのも本当だった。その日私は、ローレインを早朝病院に連れて行って、術前待合で小一時間一緒に座って話した。不安や笑うののも一緒だったし、手を握ってから、車椅子に乗って妻が手術室に向かうのを見送った。

 

彼はSuper-performer「突き抜ける人」としてこの状況をどう乗り切っていくのだろうか?

 

私とローレインは、前夜、心配し、息をのみ、祈ったものだ。私が肺がんの患者さんにしてきたように担当医が診察室にやって来て結果を告げるのを待ったものだ。その見学者の方が正しいかもしれない。なぜあの時私は手術をしていたのだろう。私は自分の拡大鏡とヘッドライトで術野をのぞき込んでいた。その光の当たったすぐ近くの術野はほんの少し前にしっかりとそこにあったのに、突然、暗く、深く、危険なものに見えた。その肺動脈の壁は、ほんの少し前には分厚く縫合しやすいように思えたのに、その一瞬後の今、紙のように薄いものに見えた。私の自信・外科医としての判断力・技術のすべては一瞬前には満ち溢れていたが、今消え去ってしまった。今までの外科医としての人生の中で初めて、手術できなくなった。さて、今わたしはどうするのか?助っ人としていつも待機してくれている外科医を一人呼ぶこともできたが、そうすべきか私はわからなかった。少なくともその時点では。この手術をどうやって完遂したのかを、それはこの本を通して伝えたい。それは、今までの人生で私が頼りにしてきた技術・学び・戦略だ。技術は、スポーツを通じて学んだものであって、人生におけるスポーツと呼ぶ。心と体を「良い」から「絶好調」に格上げし、「スター選手」から「スーパー選手」に格上げするトレーニングである。こういった学び・戦略・技術は、この本を通じてみなさまと共有したいと思っているし、それは単に人生を生きる為の道具、というわけではない。もっと重要なのは、その後何年も手術室にて、私はもっと深い学びを得たし、その学びに私は助けられた。その学びは、Superperformerを生きようとする読者のヒントになるだろう。もし外科医なら手術室にて進化するために。

 

Super-performerという単語は、翻訳がほぼ不可能である。その答えを見つけるために、この書籍を紐解いていかなければならない。

第1章 自分にとっての「満足のライン」とは何か?

 

父は泌尿器科医の父と看護師の母の間に、1962年ニュージャージーで生まれたCerfolio先生。「自分は特別な人間ではないがいつも自信に満ちている」とCerfolio先生は自称する。秘訣として先生が挙げているのは、「人生というゲームをどうやって自分のフィールドの中にもってくるか」ということである。

 

8歳の時に割り当てられた、自宅の庭の草刈りで彼は大切なことを学ぶ。それは「満足のライン」である。それがどのようなものか、本文をみてみよう。

 

8歳の時、父や兄と一緒に庭の草刈りをするように言われた。私達3人は、土曜日の朝に始め、一人一人に刈るべき領域の割り当てがあった。休まず刈り続ければ、全部で4時間かかるくらいだった。刈り取った草は、雑草が生えてこないように庭に敷き詰めていた。8歳の私には、父や兄と草刈りに出た時、私には時間がかかるものだということがわかったため、楽しんでやることにした。はっきりと言えば、芝刈り機を動かしていくときにできる、芝生のラインに集中していた。芝生の表面にできる長い平行のラインのことで、これは私の仕事と汗の結晶だ。自分だけのものであって他の人のものではない。

 兄と父と私は、チームとして仕事していたのだ。しばらくするとその芝刈りは、仕事でも重圧でもなくなった。芝生を格好良く見せることが楽しくなった。この子供用の仕事は、満足と誇りを教えてくれた。芝を刈るときに得た学びは、学校が始まりテストを受けるときも同じように始まった。難しいテストでいい点数を取ることは、芝生を刈り取ったときのラインを見たときと同じような満足感をもたらしてくれた。一生懸命にやったことの結果が跳ね返っってくると点で同じだった。芝を刈るという単純な少年時代の仕事によって、人生や仕事に関して多くのことを学んだ。

 早起きして仕事を早くに済ませば、芝生の上にまだ結露が付いているとしても、日中後でするよりも早朝の方が早く仕事を終えることができるのだ。そして、なぜか、その日は時間が長く感じられ、つまり自由時間が増えるのだ。早朝から仕事をしないときと比較して、だ。

 

さて、その8歳の時に学んだ「満足のライン」は後の、悲惨な外科研修医生活に生きてくる。次のように‥

 

先延ばしにすればするほど、仕事の重荷はより重くのしかかるし、仕事は永遠に続くように思えてしまう。先延ばしについてのこの真実は、成長して若い医師になったときでも一緒だった。医学部を出たばかりの外科研修医だったころ、2週間おきに週末は当直だった。つまり自分たちが手術した患者を回診するということだ。殆どの研修医は、土曜日曜は遅くまで眠っていたい。もっとも外科研修医にとっては、平日の回診が午前4時に始まるのだから、午前6時までが「遅く」ということになる。すべての患者を診察し、指示を出し、カルテを書いて、午前7時までには手術室についていなければならない。そして、少年時代に芝生を刈っていた時の教訓は、20年たった後でも生きているのだ。朝早くに仕事を始め、チームとして頑張れば、なぜかその日はもっと長く思えるし、その日に遅くに(午前4時ではなくて6時としても)仕事を開始するよりも自由な時間は増える。繰り返しになるが、仕事は楽しくなる。大学病院の教授という最も忙しい外科医とは違って、ほとんどの手術症例では最後まで残って形成外科のやり方で皮膚を縫合している。

  私の皮膚切開のラインは、芝生の上の芝刈り機の車輪の跡のようなものだ。私の新しい「満足のライン」だ。今まで15000例の手術をしたが、それでもこの仕事が好きだ。皮膚切開を縫い終わった後、美しい埋没縫合をみて楽しんでいる。埋没縫合をじっくり確認するのが好きだ。スキンステープラー(注:皮膚縫合用のホッチキス)や抜糸するべき縫合糸を使用することはない。芝刈りバサミを使わないのと同じだ。まず、創部は患者に見られるものだし、それはお客さんが家に来た時最初に見るものが芝生ということと同じだ。患者さんの評価は創部で決まるのだ。

 

その「満足のライン」は一人一人のものである。それを気付くことが生きていく上で最も重要なことである。

具体的にはCerfolio先生は、まずは朝型人間になることを勧めている。本文を参照しよう。

 

 

外国からの見学者の多くは、特にヨーロッパからの見学者はそうなのだが、私達チームが早朝から手術を始めることに驚く。我々の患者は大体早朝5時30分に病院に来る(注:基本的に外国は手術当日に入院する)。7時前には手術室に入り、7時10分までに1例目はスタートする。早く終わることで他の仕事ができるし、早く家に帰れるし、家族と夕食もできる。

 

生理学的に朝型人間が有利な理由

しかし、朝7時丁度に始める最大の理由は、人間の生理学にしっかりと基づいている。人間の体は、早朝の侵襲やパフォーマンス用に設定されている。言い換えれば、患者の肉体は手術という侵襲によりよく対処できるのは、この早朝という時間帯なのである。外科医も看護師も手術チームの他のメンバーも人間である以上、同じことが言える。パフォーマンスは朝がベストだ。だから、社会全体としても、出来るだけ早朝に仕事を始めることを考慮するべきなのだ。いつも質問されることがある。いつ眠っているんだ?と。私は他人と同様に眠ることは好きだ。芝刈りを早く始めれば始めるほどを学んだが、自分のことを、若い時からの朝型人間と言ったつもりはない。医学部に行き、外科研修医をやったあと、つまりほとんど毎日午前4時に起きる生活(注:アメリカの外科研修医としては標準的な時間である)を数年続けた後、朝型人間になった。歳を重ねれば重ねるほど、早朝に自分の調子が良い、ということをより強く認識するようになった。そして、歳を重ねるほど、リーダーとしての責任をより受け入れるようになった。つまりより早く起床するようになった。

 

チームリーダーこそ早朝スタートを

自分のチームメイトに、時間を守るという習慣を植え付けたければ、自分で手本を示すことだ。リーダーが一番早く来なければならないし、一番仕事を始めるべきだ。会議あれ手術であれそうであろう。そうすることにより、自分たちは朝型人間ではないと主張する従業員に向かって、権威をもって話すことができる。朝型人間ではないと主張する従業員には、わたしはこのように言っている「すばらしい。私も朝型人間ではない。でも今の社会、そして特にこの病院は、ほとんどのイベントを早朝に行うことを指示している。だから早朝に動くことを学んだほうが良い。」こんな風に言う理由は、成功することのもっとも重要な具体的要素は時間を守る、とういことだから。余裕をもって時間を守るということをトレーニングされていないために、仕事や人生のイベントで失敗する人がいる。この一つ、単純な物流システムは、成功するための最も重要な戦略の一つだ。

 車を降りて、急いでティーアップし、最初のホールでドライバーを引っ張り出すゴルファーは、しばしば森の中でロストボールを探す運命になるだろう。手術に対して肉体的にも精神的にも準備ができておらず、最初の手術室(注:米国の外科医は複数の手術室を並行して使用することが多い)に急ぐ外科医は、そのゴルファーと同様負けが決まっている。外科医だけは、ゴルフボールを失う以上のリスクを抱えているのだが。だから、もしあなたが昔の私と同様朝型人間でないんなら、変わっていこう。

 

子供や部下にも朝型生活を勧めてみよう

いつも眠りすぎの子供やティーンエイジャーは、もっと難しい問題だ。ティーンエイジャーは大人よりも睡眠が必要であるというのは、生理学上の事実であるが、だからと言って1日の半分が終わるまで(つまり午前10時や11時)彼らを寝かせてやって良いわけではない。週末は遅くまで寝ているというサイクルを打ちこわすためには、日曜日の朝早くに子供を起こし、日曜日の夜10時にはもっと疲れやすくさせれば良い。近所の人に笑われたことがあるが、ローレインと私は、休暇が終わりに近づくにつれて、どんどん朝早く子供たちを起こすようにしていた。3人の子供を1日1日ちょっとずつ早く起こすことで、夜には疲れるようになり学校へ行く準備となる。7歳か8歳になると、子供たちが自分でベッドを起き出すようにして、両親として叩き起こしたくなるのを我慢した。もし子供たちが寝過ごしたら、そのツケを味わわせることとしたのである。その結果、子供たちは、私たちが身につけてほしい習慣を学んでくれた。会社の中では、自分の従業員が眠る時間を決めるわけにはいかない。もし従業員に遅刻に関する成績表を手渡して、毎月のミーティングでスライドにして、1番から最下位まで公開するようにすることはできる。こうすることで人々に競争をもたらし、公の意味で一人ひとりが責任感を持つ。公然と責任を持たせ、成績結果を公表する以上に、習慣は風習を変える良い方法はない。始業時間に出勤することの記録を続けることで、従業員の「満足のライン」を作ることができる。

 

ゲーム好きになれ

 

ゲームで勝つことに熱中できる習慣がつけば、仕事にも生かせるかもしれない。よく言われているが、Cerfolio先生も自分の幼少時代を述懐している。その一節である。

 

 私が子供のころ、家族で3-4日の休暇を取り、ジャージーの海岸に遊びに行ったものである。 私はあるホテルが好きで、それはホテルでは小さなプラスチックのトロフィーが子供たちの競争の景品だったのだ。そのトロフィーが欲しかった。

 そのミニ競技の前日に、ホテルのダイビングボードの上で宙返りを練習していた時のことを思い出す。ダイビングボードの端に到達するたびに、父と母に向かって叫んだ。「パパ・ママ、こっち見て」 込み合ったプールデッキ越しに叫んでいた。私は沢山の人の前で、特に両親の前で 競技をする機会が嬉しかった。そして次の日、一番よい砂城を作って賞を取り、競泳で一等賞を取り、ダイビングボードで最高の宙返りをして賞をもらった。私がもらったちっぽけなプラスチックのトロフィーは、ホテルにしたら1つ50セントといったところだ。小さな安物にもかかわらず私にとってはかけがえのないものであった。自分のベッドルームに並べて、人生初の「満足のライン」となったのである。

 そのトロフィーは、極めて重要な満足のラインだ。それを勝ち取ろうという努力は、自分の中に熱意と勤勉という習慣を作る。私が色々な学校を訪問した時に気付くのは、優勝トロフィーを綺麗なトロフィーケースや華美な箱の中に収納していて、ほとんどの生徒の目に触れないようになっている学校がいかに多いかということだ。トロフィーは多くの学校のアスリートたちが、学校や運動場に行く道すがら、毎日人の目に触れる場所に飾られるべきである。次の優勝を勝ち取るために毎日努力している人間が、その努力の集大成となるものを、目にできるようにしておくべきだ。

 最近私の胸部外科チームが、世界中の有名施設の全ての内科系外科系の診療科の中で、最も低い手術死亡率を達成し、賞を頂いた。これは私たちのチームにとって大きなことであった。なぜなら日々私たちが手術しているのは重症患者であり、手術手技も複雑であるからだ。この賞はチームワークの賜物であり、重要な要素は活力である。子供の時に私が宙返りをして賞を狙った時と同じ活力なのだ。多くの見学者は、私たちが1つの手術室から別の手術室に移って行くのをみて、その活力に驚く。ほとんどの外科医は一つの手術室をもち、週に3回手術をする。ということは1日に2−3例で1週間に6−9例という計算になる。しかし長年私は、1日に4つの手術室を使用し、1週間に4日手術をしている(注:1週間には少なくとも32例という計算になるだろう)。しかもそれぞれの手術室で、患者にベストの治療ができるように努めてきた。

 

私にも耳の痛い話である:本当にベストを尽くしたと言えるのか?その検証をすることの重要性を、Cerfolio先生は強調している。

 

本当にベストを尽くしているのか?

 

おそらく最も過剰に使われ、また間違って使われるフレーズの一つは「私はベストを尽くした」ということである。あまりによく耳にする。本当にそうなのか?

 

ある日の練習においてもうちょっと頑張ったり、1日ほんの10分多く勉強したり、といったこともできなかったというのは本当だろうか?成功は、チームであれ二人であれ、同じゴールや価値観を共有したものにもたらされる。何かに成功するとか勝つというコンセプトは、とどのつまり、何を成功と考えるか、目標は何かというである。チームメンバーが成功をどれほど明確に定義するか、そしてどれくらい正確に測定されるか、どれほど強く選手やアスリートが望むかにかかっている。

 

我々の胸部外科チームが賞を取ったのは、自分たちが自身の行動を振り返り、どうすればもっと改善するのかということ進んでしているからであって、単に「ベストを尽くしている」からではない。別の例を挙げよう。さらに見学者が驚くことは、我々が休憩時間が短いのに1日中働いているということであり、それも「熱意」の文化を作り出し、「成功」をある特定の水準の仕事、つまりなるべく低い死亡率で1日にある一定数の手術症例をするということと定義しているからである。その水準を達成するためには、仕事が終わるまで限界まで努力をして限界まで効率的に仕事をしなければならない。

 

休息は、単に仕事の流れを非効率にして中断しているだけ、ということが少なくない。その水準の成功を強く欲するので、午前10時と午後2時に5分ずつの休憩を取り、プロテインシェイクとp90Xプロテインバーを摂る。しっかりと健康的な朝食を食べていれば、それだけで、仕事が終わるまで走り続けることができる。

 

自分自身と自分のチームが成功というものをどう定義づけるか、そして「ベストを尽くす」ということをどう定義づけるかが決まる。自分の周囲というのは、家族かもしれない(通常は両親がその雰囲気を作る)、チーム(コーチやオーナーが作る)、会社(重役たちが作る)かもしれない。明確に決めた目標を達成するという考え方は、アスリート、名人、子供、従業員の中に染み込んでいるため、彼らの一部になっている。言い換えれば、卓越していることと超仕事は、彼らのアイデンティティーと目標の基礎となっているのである。そして彼らのDNAの一部であるし彼らの骨格の中に絡み合っているのである。

 

15歳で大人に混じってアルバイトをして学んだこと。

 

日本の医師で15歳で世間のアルバイトをした経験のあるものは少ないだろう。米国では違うのかもしれない。それで何を学べるのか?Cerfolio先生の強さの由来がわかる。

 

15歳になった1977年の夏のこと、父に言われたのは仕事を見つけるということであった。私の労働者としての1日目はニュージャージーの建設会社としてであった。仲間たちのほとんどは20台で、話し方がまるで違ったし、明らかに違った雰囲気でお互い馴染んでいた。この仕事が私にとってどのようなものになるかは不明であった。

 私は3人とチームになり、最初の仕事は、一つの区域を占拠している老朽化した工場とその地域の掃除であった。私は自分の箒を手に取り、塵を掃き始めた。自分の最初の通りを掃き終わり、そこで、もう一方の端から掃き始めた仲間と出会うはずだったが、誰の姿も目にせず、丁度その曲がり角を曲がってそちらの通りも掃除した。そうやって進み続けた。とうとう4つめの最後の通りに到達し、残りの3人の仲間を目にしたが、彼らは自分の担当の最初の通りの半分を進んだところだった。それがチームとしての仕事だった。監督が車で近くまでやってきて、「ほかのみんなはコーヒーブレイクだから、きみもそうするように」といわれた。約20分間、わたしたちはただ、コーヒーを飲み、ドーナッツを食べ、老朽化した建物の横で座っていた。コーヒーブレイクなんて今まで聞いたことがなかったのだ。

 それまでは、これほどまでに長い時間一生懸命掃除をしたことなんてなかったから、その日の終わりにはマメができた。マメから血を出しているのを見た監督は、私に帰宅するように言ったが、それはショックだった。私は怪我は大したことがないし、大丈夫だと言って、自分のやるべきことをこなし、計画通りにシフトを終えた。

 その日の夜、父が家に帰ってきたとき、私はその日のことを話した。私が一緒に仕事をした仲間等が如何に非能率的であったか、いかにサボっていたか、ということを話した。彼らと仕事をするのは難しくはなく、それどころか彼らよりずっと一生懸命働いた。そしていくつかマメができたため、家に帰されそうになったこともとうとう話をした。父はにっこりとそして声を出して笑ったのを覚えている。

 痛みがあっても傷があってもやり続けることは、一生ものになるし、「突き抜ける人間」への道でもある。胸部外科専門医となり、アラバマ州のバーミンガムに異動してからも、屋外で仕事をすること、手作業をすることが好きだ。家の周りで庭仕事をすることで、心の安らぎと太陽の光の下での時間を享受したし、自分が子供の時父親からしてもらったことを、そのまま子供たちにしてやる機会を得た。最近も息子たちととも、家の前の低木を30本も抜いた。ショベル・斧・つるはしと、たくさんの軍手を必要とした。週末はずっと100度を超える(注:摂氏では37度くらい)炎天下であった。私と息子たちは交代で斧とつるはしを奮って、そしてショベルで掘った。

 

そして彼が子供たちに教えたいこと、伝えたいこともそのアルバイトの経験に由来する。

 私が学び、子供たちに教えようとしたことは、問題がいかに難しく思えたり、その達成がどんなにしんどいものであろうとも問題ではない、ということだ。やらねばならぬことはやらねばならぬ。それが職務であろうと、患者さんに対してであろうと、リトルリーグのチームに対してであろうとも。一つのチームにはいったのなら、それがそんなチームであろうとも、自分の時間、努力、そして自分のすべてを尽くさなければならない。時間通りにすべての試合と練習にさんかするべきだし、いつでも準備万端でなくてはならない。

 私はこの15年、野球・バスケットボール・フットボール・ホッケーにおいて60以上のチームでヘッドコーチもしくは普通のコーチを務めた。7歳の野球ゲームでアレックを教えていた時のことだった。チームの男の子が手を切って、試合を抜け出して私に見せに来た。ほんの小さな擦り傷だ。お世辞にも「切った」とは言えないものだったので、「大したことがないのだから、戻って頑張れといった。この時、その子の母親がバスケットボールのコートを急ぎ足で横切ってやってきた。母親は血を見て(ほんの2滴、といったところだった)、すぐにその子を試合から連れ出して救急外来につれていったのである。アレックはびっくりしていた。その子の育った環境は、私と妻が子供を育てたものとは全く違ったものであったのだ。

たとえば、一番下の息子のマシューは、6歳ごろジャングルジムから落ちて骨折したが、そのときすでに野球とバスケットボールの試合に出ることになっていたのだ。マシューは何があってもその試合には出ると言い張り、だから、6歳ではあったが、腕に大きなギブスをした状態で試合に出ることを許した。友達はいろいろ言っていたようだが、彼はそんな人間なんだということを知ってもあえたようである。3塁打を打って、3塁に仁王立ちになっていたのは絵になっていると思った。片手で売って、内野にしか飛んでいなかったのであるが。競技場で精神力が強いことは、後々どんな仕事においても同様の強さに繋がる。私の父を見れば一目瞭然だ。

Cerfolio先生は父親から何を学んだのだろうか?

 

Cerfolio先生は医師の父親から何を学んだのだろうか?

その泌尿器科医の父は、1週間に渡り毎食後、熱と寒気とと右上の腹部痛があった。これらは、胆嚢が腫れていることを示す古典的な兆候だ。父自身が分かっていたが、山ほど手術が予定されていることもわかっていた。母は私に父の状態を伝えるために電話をかけてきたため、その次の日には飛行機で、父の病院に駆けつけたのだが、父は予定手術をしているところであった。体温は39度あったし、感染症にやられていることが明らかに見えた。4時間後には、今度は父が手術を受ける側に回り、胆嚢の摘出を受けた。翌朝の病院の看護師から母にかかってきた電話では、父は病院から消えたということであったが、実はその2つ上の病棟で、前日の手術患者の回診をしていたのである。

 精神力の強さを保つためには、ある程度の肉体的強さを養わなければならない。ほとんどの人は、車で職場に来て、エレベータでオフィスへ、そして一日8時間から12時間働いて汗をやっとかくというくらいの運動量である。一日中一生懸命働いているかもしれないが、私たちの心拍が、元々の平常値を超えることはまずない。成功者になるためには、背部痛や関節痛、あるいはちょっとした風邪といった身体的なことを乗り越えて仕事をできなければならない。身体の具合が悪い中で仕事をするということにより、精神的な強さや機敏さが養われる。自分の健康が完璧でなくても、大抵はそれでも仕事をきちんとできることを頭でわかっておくべきだ。

 我々の環境では、痛み止めを欲したり、有給を欲しがったりすることがみだりに行われている。そして医者が病気を決めると、我々はそれを正当化して、大げさにするだけだ。本当に身体上の問題を抱える患者もいるのは明らかだが、通常の痛みや加齢による痛みを我慢して仕事に来ている患者も多いのだ。

 病気で有給を取るという考えは、非生産的だ。多くの人が知っているように私は、長年、病気で欠勤したことはない。私の場合17年間だ。自分の体調が完璧ではない日に仕事に来て、誰かに病気を移したことはない。そして私の仕事は、最も身体的な要素が強い。もちろん自分の仕事次第ではあるが、ほとんどの場合、きちんと手を洗う、お皿や道具の共有をしないということにだけで、感染を広げなくても済むのである。

 したがって、病気で休む日を有給とするのではなく、皆勤する人に褒賞している。皆勤した従業員にボーナスを与えることで、身体上精神上の強さを期待できるようになるのであり、その強さはsuperperformanceを裏打ちするのである。それは、自分の義務を大切にするという伝統である。

 

目標は重要で、様々な形態、大きさ、型を取りうる。目標の全てが、固定した物体や賞という形をとるわけではない。1988年に私が、コネチカット州のハートフォードの聖フランシス病院で、1年目の研修医として働いていた時、6人の外科研修医と一緒に座っていた時、今までで最も美しい女性が職員食堂に入ってきた。

6人とも振り返って彼女を注視した。ブロンドの髪で、青い目の中には独特の輝きがあった。病院中で彼女を知らないものはいなかった。研修医の友人に彼女のことを聞いてみると、口を揃えて、彼女は医者とは誰も、特に外科医とは誰もデートしないよ、というのであった。

 そしてまたもう一つの挑戦、つまり目標ができたのだ。私ははっきりとした、客観的な目標を作った。彼女と会う、いや少なくとも知り合いになる、ということだ。

 この看護師、ローレインと初めて長い時間会話をしたときのことを今でもよく覚えている。1988年9月の木曜日だった。人生や目標、神様、そして望む家族のことを話した。私は4人子供が欲しいといい、彼女は3人と言った。私が設定した目標の結果が、その日の会話であり、最終的には22年間の結婚生活と3人のティーンエイジャーとなった(彼女の望み通りとなったのである)。